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第65回 3−3 特殊相対性理論 

 2018/05/30

     

(2)エーテル仮説
 アインシュタインは、ガリレイ変換が成り立たない世界を相対論によって記述した。その時、彼以外の多くの物理学者たちは、光を伝える媒体「エーテル」を発見するための実験を行っていた。アインシュタインが相対論の中で用いた「ローレンツ変換」を編み出したヘンドリック・ローレンツも太陽と地球の間にあまねく充満している未発見の物質「エーテル」を信じ、光はエーテルという媒体を伝わる波であると考えていた。
 光は電磁波の一種であるという考え(マクスウェル)
   科学技術の進歩に伴って、ニュートン力学には根本的な問題が生じてきた。19世紀から20世紀にかけていくつもの現象が、ニュートン力学やガイレイの相対性理論では説明できず、新しい理論を必要とした。そのうちのひとつが新しく構築された電磁気学の問題である。
   ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831〜 1879年、スコットランド)によって電磁場の基礎方程式が作り上げられたのは、アインシュタインの特殊相対性理論の46年前である(1861年)。電場と磁場が、波となって伝わる「電磁波の存在」が、マクスウェルによって予言され、電磁現象は、方程式を解くことによって完全に記述できるようになった。マクスウェルは、ガスの科学、産業ガスの分野からみると、気体の分子運動論、熱力学、統計力学において大きな結果を残した偉大な科学者であるが、古典的な電磁気学を確立したことがよく知られる。マクスウェルは、電気化学、気体の液化と電磁気学の分野で数々の結果を残したファラデーとも通じる物理と化学の天才であり、ファラデーより40歳も年下であるが、両者は電磁気学の研究分野において交流があった。
   マクスウェルが導いた電磁波の方程式は、ベクトル解析では4つの式からなる。
    @磁場の構造を表わす「ガウスの磁束保存の式」、
 A変化する磁場と電場を表わす「ファラデー-マクスウェルの式」、
 B電荷密度と電場を表わす「マクスウェル-ガウスの式」、
 C電流・電場と磁場の関係を表わす「アンペール-マクスウェルの式」
   基礎方程式から、次の電磁波の方程式(波動方程式)が得られる。
       
   ここで、E  は電場ベクトル、  はラプラシアン(ラプラス演算子、)、  は真空の誘電率、  は真空の透磁率、  は電磁波の伝播速度であり、  の関係がある。
   マクスウェルが示した電磁波の式(1864年)は「現象論」のひとつである。現象論とは、科学の法則が厳密には解明されていなくても、数式で実際の現象を正確に記述することができるということである。
   電磁気学の理論から導かれる電磁波の速度が、アルマン・フィゾー1819〜1896年、フランス)が行った回転歯車を用いた光速度の測定実験、1849年)の結果 、に非常に近かったため、マクスウェルは自分が求めた速度は光の速度に違いないと考え、「光は電磁波の一種である」という提唱を行った。
   光速度はその後、レオン・フーコー(1819〜1868年、フランス)が鏡を用いた装置で測定(1862年)し、という、より正確な値が得られている。(現在の値は、
 電磁波には成立しないガリレイ変換
   しかし、この式によって、それまでになかった重大な問題が提起されることになった。
 物理学の基本方程式の中に「光の速度」が現れることになったが、「速度」は「距離」と「時間」から定義されるため、光の速度がどの慣性系で記述されるのかが重要な課題となったのである。
   マクスウェル方程式は、ガリレイ変換に対する不変性を持たず、もし、慣性系によらず電磁気学の法則が成り立つならば、ガリレイの相対性理論を修正することになり、ガリレイの相対性理論の方が正しいならば、マクスウェル方程式と電磁気学を修正する必要が生じた。
 マクスウェル方程式は、様々な電気や磁気の問題をまとめて説明し、電磁波を予言し、量子力学にも大きな影響を与えたが、ガリレイ変換ができないという問題は、光の速度という重大な問題を提起し、結論から言えば、これがアインシュタインの特殊相対性理論を生むきっかけとなった。
   この当時は、光の波動説と光の粒子説は完全には決着がついていなかったが、様々な観測結果や実験結果、理論から「光の波動説」が優勢となっており、ほとんど全ての学者が光を波であると考えていた。
 粒子は「物」であるが、波は「現象」である。量子力学によって量子の持つ波動性と粒子性という二義性が、まだ議論されていたこの頃、アインシュタインは奇跡の年1905年の論文のひとつで「光量子仮説」を提唱したが、光の粒子性は多くの学者からは支持されず10年以上の年月の後に受け入れられるようになったものである。19世紀末から20世紀初頭にかけて、光の伝播速度や波である光を伝播する媒質を探す研究が行われていた。
   ガリレイの相対性原理に従うと、全ての物理学理論はガリレイ変換について不変でなければならないが、電磁波を記述するマクスウェルの方程式では、ニュートン力学のように無数の慣性系が存在するという前提は成り立たない。そこで、エーテルに対する絶対座標系というものが存在し、マクスウェルの方程式は、この座標系においてのみ成立しなければならないと考えられたのである。
   マクスウェルの電磁場の基礎方程式より170年前、クリスティアーン・ホイヘンス(1629〜1695年、オランダ)は、光を縦波とする波動説の中でエーテル仮説を提唱した(1690年)。これに対して、アイザック・ニュートンは、エーテル説を否定、光は球形以外の形をした粒子であるとした(光の粒子説)。トマス・ヤングは、光を横波とする波動説を提唱した。
 17世紀以降、光の波動説と粒子説は、幾度か形勢が交互したが、19世紀末は、多くの実験結果・観測、理論から、光の波動説が優勢となり、光の粒子説はほとんど廃れていた。
 しかし、光がどのようにして伝播するのかホイヘンスが予言した光を伝える媒体=エーテル(ether)は発見されていなかった。なんと言っても太陽と地球の間は「真空」であり波を伝える媒体が見当たらないのに光が届くのは何故か、宇宙空間には未発見の媒体があると多くの学者が信じていた。
   波動説を決定付けるための実験、歴史に残る「マイケルソン・モーリーの実験」(Michelson-Morley experiment、1887年〜)が行われた。アルバート・マイケルソン(1852〜1931年、プロイセン王国、1881年まで米国海軍士官、その後大学の物理学教授)と物理学者のエドワード・モーリー(1838〜1923年、米国)は、光速に対する地球の速さの比を検出し、「光や電磁波を伝える媒体=エーテル(ether)」の存在を確認するための実験を計画した。
 光は波であるから、太陽からの光が地球に光が届くには、波を伝える媒体が必要であり、宇宙空間はエーテルという仮想の物質で満たされていると考えられていたため、エーテルの実在を証明しようとしたのである。
 マイケルソンらは、特殊な干渉計を発明して、エーテルを発見するための大がかりな実験を始めた。
マイケルソン・モーリー実験
   マイケルソン・モーリー実験の仮説は、
   @エーテルは太陽系に対して静止している、
 Aエーテル中の光速は一定である、
 B地球上の光速は太陽系に対するガリレイ変換で決まる
  というものであった。
   当時は、太陽系よりも大きな宇宙については、「とりあえず考える必要がなかった」ため、エーテルは太陽系の中だけで静止し、光はその中を伝わることが確かめられればよかった。静止している媒体エーテルが存在し、その「ひとつの慣性系」の中で地球が動いていると考えれば、方向によって光の速度が変わるはずであり、それでエーテルの存在が確認できると考えられた。速度の差を測定する装置が考案された。
    地球の自転速度は、秒速460mほどであり、地球が太陽の周りを回る公転速度は秒速30kmである。地球の公転によって生じる光の速度の差、すなわち「エーテルの風速」を干渉計によって観測しようというものである。マイケルソンとモーリー以外にも多くの研究者がこの実験に参加、実験結果に対する議論には、世界の多くの著名な学者が参加した。
   光の速度は17世紀には、天体観測から秒速21万kmと求められ、その後、アルマン・フィゾー(1819〜1896年、フランス)の実験(1849年)によって秒速31.5万kmという値が知られていた。「光速不変の法則」が実験的に見出されており、地球の公転速度であれば、エーテルの風速は、技術的に測定可能な範囲にありエーテルの検出は可能と思われた。(この当時は、光速度が一定であるということは原理ではなく、法則と考えられており、証明はできなかったが経験的に正しいとされていた)
   かつてコペルニクスやケプラーによって地動説が提唱された時、地球が太陽の周りを公転しているのであれば必ず見出されるはずの恒星の年周視差が全く観測されず、かなり後になって観測技術が発達して初めて年周視差が確認されたということがある。
  エーテルもその存在が提唱されてから200年近くは観測されなかったが、それは、年周視差の時と同様、測定技術が十分ではなかったということであり、観測されないということが、エーテルが存在しないという証拠にはなっていないと考えられていた。光速度や地球の公転速度が正確に見積られ、高精度の光干渉計が発明された19世紀末の技術であれば、ついにエーテルの存在がとらえられると思われた。(21世紀の重力波の観測やダークマターの探索の挑戦などを見ると100年前のエーテルが科学界にとっていかに重要なものであったのか想像できる)
   1881年からマイケルソンによってはじめられた実験は、モーリー、ミラー、ケネディ、イリングワースなど多くの研究者によって1930年まで50年にもわたって継続され、10回以上論文が提出された。しかし、エーテル発見の報告はついになされなかった。測定精度や実験方法には問題がないと思われたが、宇宙空間で静止しているエーテルに対して動いている地球に当たるエーテルの風はなかった。
  マイケルソンらの実験は、エーテルを発見するという当初の目的からすると大失敗ということになるが、これだけの実験を行っても観測されないエーテルは、ほぼ存在しないことが証明された。マイケルソン・モーレー実験は「失敗が評価された」最も歴史に残る大実験と言われ、物理学における大発見とも言われる。
  マイケルソンは、光干渉計による光速度の測定によって米国人初のノーベル物理学賞(1907年)を受賞した。
エーテルという物質
   ホイヘンスが提唱した宇宙を満たすエーテルは、マイケルソン=モーリーの実験によって、その存在が否定され、仮想のものではなく、「架空」の物質となった。
   この「エーテル(ether)」という言葉には、普遍的に広がっているという意味があり、他の分野には、この「エーテル」は今も残っている。
  @神学におけるエーテルは宇宙を構成する「元素」のひとつとされており、ホイヘンスが提唱したエーテルのようにあまねく広がっているものと考えられている、
  A化学物質(分子)のエーテルは、「エーテル結合(-R-O-R')を持つ化学物質」である。揮発性が高いということでこの名前がついている。
 いくつかあるエーテル類の中で、ジエチルエーテル(C4H10O)をただ単にエーテルと呼ぶことが多く、有機溶媒、麻酔薬、ディーゼル燃料の燃焼助剤としての用途が知られている。
 ジエチルエーテルよりも簡単な構造を持つジメチルエーテル(C2H6O)は、一般に、「DME」と呼ばれ、スプレー噴射剤、LPG代替燃料、自動車用・産業用燃料として実用化されている。
 一方、日本の法令では、高揮発性の石油留分を「石油エーテル(日本の消防法では第四類危険物)」と呼ぶが、石油エーテルの主成分はペンタンであって、石油エーテルにはエーテル類が含まれていない。名称と中身が異なっているので注意が必要である。
  B通信分野のエーテル。
 「イーサネット」というネットワークの規格は、ゼロックス社の登録商標(1972年)であるが、エーテルのように、遍く広がるネットワーク情報を意味する言葉が語源となっている。発音はエーテルネットではなく、英語読みのイーサネットが普及している。
 その通信技術はIEEEによって規格化されており、物理規格のイーサネットと通信規格のTCP/IPプロトコルの二つの言葉は、ネットワーク時代の標準語となっている。