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第67回 ローレンツ変換

 2018/06/10


 
  多くの物理学者が、波である光を伝える媒体「エーテル」の観測を試みているとき、アインシュタインは光を量子化する「光量子仮説」を唱えた。無名の特許局職員の論文に賛同するものは少なく、この論文によってアインシュタインがノーベル物理学賞を得るのはかなり後のことになる。
   アインシュタインによると、光は媒体を必要としない真空中を伝わる波であり、また粒子としても振る舞う「量子」であるという。マックス・プランクによってエネルギーの量子化が提唱され、ド・ブロイによって電子の波動性が議論され始めた20世紀初頭、電磁波の一種であることがほぼ判明していた「光」にも粒子性という考えが提唱された。「波である光は粒子の性質も持つ」というものであり、後の光量子(light quantum)と呼ばれるようになった。波である光は「光波」、その後の実験的研究によって明らかになった光の性質から、粒子である光には「光子、こうし、photon」という名称が与えられた。
 アインシュタインは、エーテルの存在を否定したのではなく、光の伝播にエーテルを必要としなかったため、マイケルソンらがエーテルの観測を続け、世界の多くの学者がその実験結果を巡って大いに議論を行っていた時もエーテルの存在に関する議論には参加することがなかった。
   アインシュタインは、続いて3ヵ月後、特殊相対性理論を発表した。(当時はまだこの名称はない)
  この時、アインシュタインは、スイス特許庁に勤務する特許審査官であったが、学位取得のために大学に提出した特殊相対性理論は拒絶された。代わりに提出した論文は、後に「ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理」となり、分子の存在の証明という重要な論文となった。この「ブラウン運動の理論」と「光量子仮説」と「特殊相対性理論」の3つの重要な論文が発表された1905年は、後に奇跡の年と呼ばれるようになった。
 

アインシュタインの主な業績

発表年

論文・理論

成果

1905年3月

光量子仮説

光の粒子性を説明。後にノーベル物理学賞

1905年5月

分子の大きさを決める手法

学位論文として提出

 

ブラウン運動

分子の存在を証明

1905年6月

特殊相対性理論

加速度のない慣性系に対する電磁気学および力学の新理論

1905年9月

特殊相対性理論の一部。エネルギーと質量の等価

1911〜16年

一般相対性理論

重力理論。加速度のある系での相対論

1917年

アインシュタイン方程式

重力方程式

ローレンツ変換
   アインシュタインの特殊相対性理論は、マクスウェルの電磁波の理論における慣性系の問題を解決するものであり、二つの原理に基づく新たな理論である。
 ひとつは、物理学の法則は全ての慣性系で同じ形式で表わされる「相対性原理」が成り立つということ、二つ目は、ある慣性系から見た時、光源が静止しているか運動しているかにかかわらず、光速は一定であるという「光速一定の原理」である。アインシュタインは、光を伝える媒体・エーテルの存在を前提とせず、光を粒子と波の二面性を持つ「光量子」としたが、さらにニュートンが与えた絶対空間、絶対時間の概念を放棄し、どこからみても光速は一定であるというそれまでの常識を覆す提案を行った。
   アインシュタインは、絶対時間や絶対空間ではなく、時間と空間を一体と考える「時空」の概念を導入、観測結果から得られる「光速度一定の法則」ではなく、あらゆる観測者からみて光速度が一定であり時空の方が変化すると考える「光速度一定の原理」に基づいて特殊相対性理論を導いた。
  真空中の光速度が一定に見えるのは、光速度一定という法則があるのではなく、まず先に光速度が一定であるという原理があるというのが新たな時空の概念である。光の速度が一定であるということはそれ自体が原理(本質)であり、それを観測している時空(時間と空間)の方が変化するというのである。それまでに古典物理学の範囲では、たまたま時空の変化が小さく、空間と時間は不変で、光速度がたまたま一定に見えていたという解釈ということになる。
   アインシュタインは、彼の大学の数学の教官であったヘルマン・ミンコフスキー(1864〜1909年、リトアニア)が考えた4次元空間・ミンコフスキー時空を特殊相対性理論の幾何学に用いたが、これは、物理学にとって極めて重要な転換点となった。ニュートン力学では、空間が伸び縮みしたり、時間の進む速さが変わったりすることはない。時間と空間は、絶対的であり、科学が取り扱う対象としてはならなかったのである。
  しかし、アインシュタインは、絶対時間と絶対空間の原理を放棄し、時空を科学の対象とした。これは物理学における大革命であった。
   速度とは、ある時間に進んだ距離であるから、時間と空間が不変であれば、速度の定義は容易であるが、そのためには、慣性系は無限に存在し、「光速一定の原理」と「ガリレイ変換」は矛盾する。光の速度を定義することが困難となり、マクスウェルの電磁波の方程式はガリレイ変換ができず行き詰まった。アインシュタインは、特殊相対性理論の中でローレンツ変換を用いることによって問題を解決した。
 
   前述のガリレイ変換と同様、方向に速度で動いている慣性系を、から へローレンツ変換する時の手順は次のようになる。
 
 
 
 
   ここで 、 
   絶対時間を前提とするガリレイ変換に対して、時間と空間が等価であるローレンツ変換は、少し複雑な形式となり、光の速度が一定であり、速度を定義する時間と空間の方が一定ではない。ガリレイ変換では、観測者によって光速は一定ではないが、ローレンツ変換の場合は、どのような観測者から見ても光束は一定であり、光速一定の原理と矛盾しない変換が可能である。
   また、ローレンツ変換は、速度 が光速度に対して十分に小さく、ゼロとみなせる時、 となり、ガリレオ変換と同じ結果になる。これは古典物理学の光速不変の法則と矛盾しない変換形式であり、速度が十分に小さい場合は、それまでの古典力学を含むことができ、過去の科学の成果の多くを矛盾なく使い続けることができる。
アインシュタインの特殊相対性理論(Spezielle Relativitatstheorie、SRT、1905年、英:special relativity)
   アインシュタインの論文の名称は、「電気力学」という題名であったが、慣性系の変換が、このローレンツ変換に限定され、また、重力を含まないという条件であったため、「特殊相対性理論」と呼ばれるようになった。
   ヘンドリック・ローレンツ(1853〜1928年、オランダ)は、マクスウェルの方程式が座標変換に対して不変であるという条件からローレンツ変換を導いたが、その後、光や電場、磁場だけでなく様々な事象がこのローレンツ変換によって理解されるようになり、時間も空間も質量も、様々な「もの」や「こと」がローレンツ変換できることが分かった。
 ローレンツは、ローレンツ変換がマクスウェル方程式を不変な形で変換することを、1900年に発見していたが、ゼーマン効果の研究でノーベル物理学賞を受賞(1902年)しており、アインシュタインの特殊相対性理論が発表された時には、すでに学界の大物である。
   無名のアインシュタイン(当時26歳)とローレンツでは、学界や学会における評価に大きな差があり、ローレンツ変換を用いたアインシュタインの理論は、当初は「ローレンツ−アインシュタイン理論」と呼ばれた。しかし、ローレンツは、エーテルの存在を強く信じており、ローレンツ変換が、時空の本質そのものであるということには気付いておらず、そのことを理解していたのは、アインシュタインだけであった。
 非常に速度が大きい物体では時間と空間が縮むが、ローレンツが考えたこのローレンツ収縮の解釈は、アインシュタインの相対論の解釈とは全く異なるものであり、エーテルの存在を前提としていた。
   アインシュタインが提唱した理論は、これを高く評価したマックス・プランクによって見出され、その後、ローレンツ−アインシュタイン理論ではなく、「アインシュタインの特殊相対性理論」と呼ばれるようになった。ただし、アインシュタインはプランクのエネルギー量子に懐疑的であり、プランクもアインシュタインの光量子仮説には懐疑的であったようで、現代物理学の二大理論の提唱者である二人は初めから意見が一致していた訳ではない。
 アインシュタインは、4年後にスイス特許庁を辞職、翌年には、プランクに推薦されて、カイザー・ヴィルヘルム研究所(ベルリン)の所長となり、はじめて研究者生活をスタートすることになる。
特殊相対性理論のひとつの有名な帰結
   特殊相対性理論の発表から数ヵ月後に追加で発表された次の式は、特殊相対性理論の中でも最も有名な「エネルギーと質量が等価である」という関係を表わす式である。
      
   この式は、4元運動量保存則から導かれ、 は「エネルギー」、 は速度 で動く粒子の静止質量である。分母のローレンツ変換は、質量についても同じ形式が用いられるため、静止系でも運動系でも成り立ち、   、"E equals m c squared"という世界的に有名な関係式が得られる。
   この式に具体的な数値を代入すると、わずかな質量が莫大なエネルギーに転換されることが分かり、また莫大なエネルギーがあれば、わずかではあるが質量(物質)が生み出されることが示唆されている。
 エネルギーと質量(物質)は等価であるから、「無から有は生まれない」という考えは、19世紀までの常識、過去のものとなった。