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第76回 4章 ガスの科学と物質の階層構造

 2018/09/13

  4−1 序論「養おう、見えないガスを見る力」  
  4−2 階層と尺度  
   4−2−1 長さで表わされる階層  

4−1 序論「養おう、見えないガスを見る力」
 これは、かつて、私がいたガスの研究所の安全標語のひとつである。職場の安全啓発のために、安全標語を募集することがあるが、応募作品の中で1位をとるのは、比較的同じ人物であることが多い。それだけ、その人の安全やガスに対する意識が高いということであるが、この「養おう、見えないガスを見る力」という言葉は、ガスの取扱の安全に対する姿勢というだけではなく、けっして見ることができない、人間の目では直接ガスの分子を視覚として感じることはできないガス分子を想像する力が、とても重要であることを示している。
  ことわざでは「百聞は一見にしかず」と言うが、自然界のほとんどのものは、見ることができない。学び、考え、想像する力こそが、ガスを見る力である。先人の成果に学び、異なる階層を理解するようにしなければ、ガス屋の商売は成り立たない。見えないものを想像する力が必要である。自分の目で見て、手で触れられるものしか信じないという人には、ガスを理解し取り扱うことはできない。
   ガスの分子は、あまりにも小さく、肉眼でも光学顕微鏡でも見ることができない。分子の世界と人間の世界では、階層が大きく異なっており、容易には観測ができず、理解が難しいということである。自然界を観察し、それを理解しようとする時には階層の違いを意識することが非常に重要である。
ガス屋のビジネスの階層
   物理学における階層(物質の階層構造)を意識して、ガスの物理を整理していきたいと思う。
 産業ガスのビジネスや技術は、一般の工業に比べて非常にニッチだと思われている。しかし、物質の階層からみると産業ガスのビジネス領域は、他のどの産業よりも広いかも知れない。
  多くの産業、たとえば、化学、食品、鉄鋼、電子工業、など様々な産業は、それぞれ得意な領域・分野を持ち、学問分野においても、それぞれの学問が得意とする階層を持っている。
  これに対して、分子を売るガス屋の得意分野は何となくぼんやりとしている。ガス屋のビジネスの基本は、ガス分子を売る商売なので、守備範囲、得意分野は、10-10mの階層周辺と言えるかも知れないが、利用する技術やガスの顧客、ガス・アプリケーション(ガス利用技術)の分野は、非常に広範である。同位体や原子核、超電導現象などの領域であれば、10-15mの階層、流体機器やガス利用機器であれば、おそらく10-2m〜101mの階層、ナノテク素材であれば10-9mの階層、宇宙開発であれば1010m以上の階層、など、ほぼ全ての階層に渡っている。
  ガス屋はニッチな産業だと思われているが、ビジネスソリューション(顧客に提供する問題解決の手段)は、非常に広い階層にあり、他の産業が非常に専門的な技術を得意としているのに対して、むしろ産業ガスの方が、より一般的な科学の領域で商売をしているのである。
   ガス屋のビジネスは、化学の階層(10-8m)から原子・分子の階層(10-10m)あたりから始まっているので、最初から広い階層に広がっていたわけではない。しかし、現在の産業ガスビジネスでは、電子材料、超低温や超電導も扱うため、量子(原子核や電子)の階層まで広がっている。
 ガス屋のビジネスである安定同位体の製造や同位体化合物の合成には、化学合成や化学工学の技術が用いられるが、同位体そのものは、原子核の階層の話であるから分子の階層の常識が通じない。安定同位体ビジネスにおけるPET診断は、粒子-反粒子の対消滅、素粒子の階層の現象を利用している。分子の階層の理解だけでは、ガス・アプリケーションの中身が理解できない時代になっている。
 ガスビジネスには、分子よりも大きな階層も現れる。材料ビジネスでは、ガス分子よりも一桁階層が大きい10-9m(ナノテクノロジー)があり、さらに3桁大きい階層の10-6mのマイクロメートル(ミクロンレベル)にもガス・アプリケーションがある。
  空気や大気の構造、エネルギー資源など、地球規模の資源や環境の話になると、今度は、非常に大きな階層の議論となる。エネルギー、資源、宇宙開発の分野は、産業ガスにとって重要なビジネス領域である。
  最先端の研究開発の領域では、さらに桁外れに大きな階層も現われる。産業ガスの基盤は、空気分離という非常にニッチな技術であるが、そこから供給されるガスが利用される領域は極めて広い階層の中にある。ガス屋の仕事はあまり広く知られていないため、ガス屋は、主要産業から見てどこか片隅にいるような気になることもあるが、実際のビジネスは非常に広い領域を相手にしている。
   20世紀以降の科学は、物質だけでなく、エネルギー、空間、時間などの自然を科学の対象とした。その結果、時間も空間も絶対的なものではなく、現実の世界には、無限も永遠も存在しないことが分かった。それまで、自然を表わす時、非常に大きな空間には「無限」、非常に長い時間には「永遠」という言葉が使われてきたが、これらは自然界を正しく表わしていないことが明らかとなった。無限や永遠は、数学の概念や文学の表現であり、科学の概念ではなくなった。
 20世紀後半から、自然界を記述する物理の計量は、時空もエネルギーも全て有限の値を持つため、階層も有限の値で表現される。天文学的数字はけっして無限大ではなく、非常に小さな時空もけっしてゼロではない。何もない空間から物質が生まれ、無から有は生まれないという古い常識も消えた。時間も未来永劫続くのではなく、その始まりと終わりが研究されている。自然を正しく理解するためには、まず時空が有限であることから理解する必要があり、その大きさを考える必要がある。
 階層の尺度は大きさであり、通常の理解の範囲を超えることが多いが、これをただ単に「非常に大きい」とか「非常に小さい」とひとくくりにするのではなく、どのくらい大きいのか、どのくらい小さいのかというその値を理解していくことが、非常に重要である。
階層と還元主義
   研究対象の中に階層構造を見つけ出し、上位階層において成立する基本法則や基本概念が、「いつでも必ずそれより一つ下位の法則と概念で書き換えが可能」としてしまう考え方を「還元主義」と呼ぶ。ギリシャ時代の哲学や稠性の自然哲学、17世紀以降の「科学」では、物質の本質を探求する時に、より小さな根源を探していった。大昔から「元素」という小さくて見えない物質の基本があると信じられ、それを探し求める研究の中からガス分子も発見されたが、分子・原子は究極の構造ではなくそれを構成するさらに小さな階層である素粒子の発見にまで至っている。
  小さな階層を発見するたびに明らかになっていくことは、そこにある自然の法則が上位の階層を支配しているということである。非常に複雑な現象でも、どんどん小さな要素に分解していくと、基本的な法則が見出され、自然の理解が深まるのである。素粒子やエネルギーの研究から宇宙の全てを理解しようと考えるのが、現代の科学の流れである。
  一方、「どんなに複雑な物事でも、それを構成する要素に分解し、要素を理解すれば、元の複雑な物事全体の性質や振る舞いもすべて理解できるはずだ」と考えるのは行き過ぎだという批判もあり、この「還元主義」という言葉は批判的に用いられることが多い。
  非常に複雑な生物学や巨大な階層である地球物理学のような分野でも、物質の基本要素である素粒子の階層まで還元してしまえば、全て説明できるはずという物理還元主義に対して、現実問題としてそれは不可能であり、小さな階層が全てを決めるのではなく、階層が大きくなる時にそれまでになかった性質が現れることもあるという考え方も存在する。
  確かに、物質を究極まで分解しても、全てを理解することはできないのかも知れないが、元素・分子・原子・原子核・素粒子と次々に小さな階層を探求していくという科学の手法は大きな成果を挙げてきており、物質の階層構造を俯瞰し理解するということは、ガスの科学にとっても非常に重要な手法であると思われる。
4−2 階層と尺度
4−2−1 長さで表わされる階層
    階層は、物質世界の構造であり、自然科学の階層は、「大きさ」である。現在の自然界は、主に4つの次元を持つ時空間(空間の3次元と時間の1次元)だけが観測可能であり、階層を表す尺度として、空間の1次元「長さ」が用いられる。
 
 図は、シェルドン・グラショー(1932年〜、米国)が描いた「ウロボロスの蛇」の図である。最も大きい階層「宇宙」と最も小さい階層が深く関わっているということを「自の尻尾を飲み込む蛇」の絵にたとえて描いた有名な絵である。
  出典は、KEKのHPに日本語訳で示されたもので、原本の単位はcm、真ん中には10±30cmが書かれている。ここでは、それ以外の数値の単位をmに変えてある。
  また原文は、原子が10-6cm近くに書かれているが、実際は10-8cm(10-10m、1Å)であるから、10-10mを追加した。グラショーの原典では3桁刻みに描かれ、数値とレイアウトは全体的に大雑把に表現されているため、原子がナノメートルよりも一桁小さいことを強調した。
   この図の目的は、非常に小さな階層である素粒子を研究することが、最も大きな階層である宇宙の研究につながる様子を示すことであり、また、宇宙の始まりは非常に小さな時空から始まったことを示し、宇宙の階層構造は、この10進法の60桁の中(10±30cm)に表現されている。
   グラショーは、素粒子研究の権威であり、電弱相互作用(電磁気力と弱い相互作用を統一する相互作用)を説明する理論を提唱し、これをアブドゥッス・サラームとスティーヴン・ワインバーグがこれを発展させて電弱統一理論を完成させたことで知られる(1979年、3人にノーベル物理学賞)。
  無限、永遠、ゼロなどの概念は、数学や工学的取り扱い、あるいは文学には存在するが、現実の世界には存在しない。物理学は、物質と時空を取り扱う科学であるため、階層は有限である。階層構造の重要な性質は、小さな階層の性質は大きな階層に受け継がれ、上位の階層は下位の階層の性質を合わせた性質を持つということである。すなわち上位の階層は、下位の階層の法則に支配される、ということであり、科学の「何故」を探求する時、人々は、次々と小さな階層を調べようとする。
たとえば、人間が、分子の階層で何かの操作しようと思えば、人間の大きさでは小さな階層に直接影響を与えることはできないので、分子の階層あるいはもっと小さな階層の現象、性質を知り、これに使える道具を編み出して利用する。
  分子ほど階層が離れていない場合でも、たとえば微生物や病原体の階層であっても、直接ヒトの階層からは操作ができない。ウィルスはヒトより8桁も小さいので、これを踏み潰したりつまみ出したりすることはできない。対抗手段としては、同じ階層以下で機能するもの、ワクチンや免疫などが必要となる。
   時空の階層を表現する尺度には、時空そのもの、あるいは時間や体積または面積などでは表現しにくいため、図2-のように、一次元の「長さ」が用いられる。
階層を表す長さの単位は、メートル(m)を、10の羃乗、オーダーで示しており、階層は、文字通り「桁違い」の長さ、大きさによって表現されている。
図には、無限大とゼロがない。数学の世界には、二倍や半分の概念があり、最大と思われる数値の二倍はさらに大きく、最小と思われる数値の半分はさらに小さい。したがって、正の実数の範囲であれば、最大は「無限大」、最小は「ゼロ」と表現される。しかし、これは数学の世界の話であって、現実の世界には、宇宙の大きさの二倍の長さや、プランク長さの半分の長さがない。光速度は有限で、この速度を越えて情報を伝えることができないため、事象の伝達には「瞬時」ということもない。たとえ目の前の事象であっても、同時は一致しない。
工学的には、「無限遠」「無限な広がり」「瞬間」「同時」などの言葉がしばしば用いられ、特に不都合は生じない。しかし、科学的にみれば、これらは近似的表現であり、便宜的な概念である。現実の世界には、無限大の長さ、ゼロの長さ、無限の時間、ゼロの時間などは存在しない。20世紀以降の科学は、自然界が数学が示すようなゼロや無限のような極限値を持っていないことを明らかにした。
表に階層の具体例を示す。
 
表 階層(長さ)の例
階層
対象の例
研究領域・理論・力の到達距離、備考
  なし 数学には無限大という概念があるが、自然界には無限がない。長さだけでなく時間にも永遠はない。(実学の世界には、無限遠や永久といった取扱いがあるが、これらは便宜的なものであって厳密には存在しない)  
1036m 36 現在の宇宙の大きさ(共動距離)
因果律の外側にある
インフレーション宇宙論 量子重力理論
1027m 27 観測可能な宇宙(半径465億光年の球体)
事象の地平線までの距離
ビッグバン宇宙論 科学が取り扱う最大の階層
1022m 22 分子雲、アンドロメダ銀河までの距離、
銀河団の大きさ
天文学 銀河の大きさに比べて、銀河間の距離は近い
1021m 21 銀河の大きさ、10万光年 天文学
1016m 16 1光年 9.49×1015m 天文学  
1013m 13 1光日 2.6×1013m 惑星科学 ↑重力が支配的
1012m 12 太陽系の大きさ、50au 惑星科学  
1011m 11 太陽までの距離、8光分、
1au※ 地球の公転軌道
   

109m

9

太陽の直径    

108m

8

月までの距離、木星の直径、
1光秒、29万9979km
  月まで38万km

107m

7 宇宙↑地球の外
地球の直径、大気圏の高度

大気圏
地球物理学、地球化学

大気圏1万km
106m 6 ナイル川の長さ、月の直径    

105m

5

カーマンライン 便宜的に宇宙とされる高度 宇宙ステーションの高度

104m

4

成層圏の高度、対流圏の高度 気象学、航空工学、空気 望遠鏡

103m

3

高山病(2200m〜) ↓ヒトの居住域  

102m

2

建築物、野球場、船、大型植物 人工物、工学の領域  

10m

1

列車、大型動物   4つの力のうち電磁力が支配的になる領域

1m

0

人間、自動車 工学の領域、生物の領域  

10-1m

-1

雀、ボール    

10-2m

-2

蚊、昆虫    

10-3m

-3

蟻、昆虫    

10-4m

-4

髪の毛、ヒトの目の分解能 ↑肉眼の世界 虫眼鏡

10-5m

-5

ラップの厚さ、微生物   顕微鏡

10-6m

-6

細胞、ミクロン、微生物、細菌 MEMS  

10-7m

-7

     

10-8m

-8

ウィルス   電子顕微鏡
    ↑ マクロスコピック(巨視的)↑    

10-9m

-9

メゾスコピック、CNTなど ナノテクの領域、NEMS  
    ミクロスコピック(微視的) ↓    

10-10m

-10

分子・原子、 1A (1au)※ 化学の領域
分子生物学
ガスの化学
量子力学
量子化学

10-14m

-14

原子核 核物理、同位体
複合粒子、ハドロン(バリオン、メソン)
弱い相互作用が支配的になる領域

10-15m

-15

古典的電子径、1fm、レプトン(電子、ニュートリノ) 素粒子物理学 量子電磁気学

10-18m

-18

電磁的電子径 計算上の最小長さ  

10-29m

-29

クォーク 量子色力学 強い相互作用が支配的になる領域

10-35m

-35

プランク長さ(基準質量のシュヴァルツシルト半径)1.616x10-35m 物理学が扱う最小値
誕生時の宇宙の大きさ、ゆらぎ
インフレーション宇宙論
量子重力理論

10-57m

-57

電子のシュヴァルツシルト半径 1.35x10-57m 計算上の最小長さ。物理的な意味は不明  
0   なし 数学にはゼロがあるが、物理学には厳密なゼロがない。長さだけでなく時間、温度、なども厳密なゼロが存在しない。ほとんどの物理量が非常に小さな値で量子化されている。  
 

注意:理論上与えられる長さも含まれており、全ての長さが計測可能という訳ではない。
※ au:天文単位は、例外的にSIとの併用が可能とされている。
※ au:オングストローム単位の1Å=10-10mmは、 SIでは認められていないが、日本の計量法では使用可能となっている。

参考図書
 
 
「ものの大きさ―自然の階層・宇宙の階層 」(須藤 靖著、東京大学出版会、2006)
1)科学をする心
2)微視的世界の階層
3)宇宙の階層
4)微視的世界と巨視的世界をつなぐ
5)宇宙の組成
6)人間原理
7)宇宙論の進化
付録)大きな数と小さな数

「階層構造の科学―宇宙・地球・生命をつなぐ新しい視点」( 阪口 秀, 末次 大輔 , 草野 完也 著、東京大学出版会 、2008)
JAMSTEC(海洋研究開発機構)の中堅研究者が「階層構造」をキーワードに執筆。
 

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