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第73回 3−6 量子化学(quantum chemistry)

 2018/08/08

    

量子化学
 量子論の中心をなす量子力学は、シュレーディンガー方程式、ディラック方程式、量子電磁力学、量子色力学へと発展していったが、一方で、量子論の成果を化学の問題に適用し、原子と電子の振る舞い、分子構造、物性や反応を理論的に説明づける学問分野、「量子化学」が現れた。
  シュレーディンガー方程式が発表された翌年、ヴァルター・ハイトラー(1904〜1981年、ドイツ)とフリッツ・ロンドン(1900〜1954年、ドイツ、米国)は、量子力学の記述を水素分子へ適用し、共有結合を説明することに成功した。
フリッツ・ロンドン
   ロンドンは、量子化学の先駆的研究で知られており、ロンドン分散力(London dispersion force)を発見、分子間力が働かないはずのアルゴンやヘリウムのような中性原子間にも量子論的な電気双極子間の引力が生じ、分子間力はゼロではないということを示した。
  「分散 dispersion」という言葉からは、分散系や、ばらばらに分散するというイメージが沸くため、科学を勉強する機会の少ない文科系の人であれば、分散する力と勘違いすることがあるが、「分散力 dispersion force」とは分子と分子の間に働く引力のことである。ロンドン分散力は、他の分子間力に比べて、大きくはないため、極性分子ではほとんど目立つことがないが、窒素やメタンでのような無極性分子では、主な引力となり、ヘリウムのような希ガスの単原子分子では、唯一の引力となる。なお、分子と分子の距離が近いとその間に働く万有引力もありそうだが、分散力も含めた「分子間力」に比べると「重力」は30桁も小さいので無視できる。
  アルゴンやヘリウムのような希ガスの液化は、ロンドン力の存在によってはじめて説明ができる。
   ロンドンは、量子化学を創始したことで知られるが、米国に渡ってからは低温科学に貢献、超流動の研究でも知られるようになった。
 
 フリッツ・ロンドンは同じく低温物理学の研究者である弟のハインツ・ロンドン(1907〜1970年、ドイツ、英国)と共同で超伝導のマイスナー効果に解釈を与えるロンドン方程式を発表(1935年)、ロンドンの名前は、量子化学だけでなく低温工学の分野でもよく知られており、米低温学会では、低温物理学の優秀な研究に対してフリッツ・ロンドン賞が贈られている。
  弟のハインツ・ロンドンは、超低温の冷却装置である3He-4He希釈冷凍法を発明した(1951年)ことでも知られる。これは、液体ヘリウムの同位体間の物性の違い(3He:ヘリウム3は物質の性質、4He:ヘリウム4は波の性質を強く持つ)を利用して極低温を作り出す特殊な冷凍機である。
   希ガスや窒素などの液化の機構、超低温科学、超流動現象、希釈冷凍機など、ロンドンは、ガス屋であれば外せない名前のひとつである。
分子の問題を解く、量子化学
   量子化学の問題を解くということは、シュレーディンガー方程式の解、ハミルトニアンの固有値と波動関数を得ることである。
 量子化学は、ディラック方程式のような「場の量子力学」とは異なり、量子を非相対論的に取り扱う古典的量子論であるため、現象としても数学としても、一見簡単そうにみえる。しかし、実際の化学の問題は、化学物質(分子)を扱うため、物理学の問題のような単純さがなく、非常に複雑である。
  化学の問題、すなわち原子の分子軌道をそのままの形式で計算することは非常に難しい。そのため、ハートリー=フォック近似(1930年、ウラジミール・フォック)のような1電子近似法や半経験的方法が提案され、実用的な量子化学が発展してきた。
 
 量子化学の先駆者のひとり、ライナス・ポーリング(1901〜1994年、米国)は、ハイトラーとロンドンが水素分子で確立した「ハイトラー・ロンドン理論」を多原子系に拡張して、「原子価結合法」(valence bond theory、VB法)と呼ばれる手法を提唱した。
 VB法では、分子の軌道電子は、ある1つの原子の原子軌道に局在化していると考え、化学結合を各原子の原子軌道に属する電子の相互作用によって説明する。ポーリングは共有結合が量子力学的「共鳴」(resonance)に基づくという共鳴理論を提唱(1928年)、混成軌道の概念を導入(1930年)して、VB法を確立した。
   20世紀を代表する科学者が選ばれる時、数多い天才の中から、物理学ではアインシュタイン、化学ではポーリングと言われるほどポーリングは化学の世界で数々の業績を残している。
  ノーベル化学賞(1954年)とノーベル平和賞(1962年)を受賞している。
   量子化学のもうひとつの解法は、分子軌道法(Molecular Orbital Method、MO法)であり、フリードリッヒ・フント(1896〜1997年、ドイツ)、ジョン・レナード=ジョーンズ(1894〜 1954年、イングランド)らによって開発された。
  MO法では、分子は分子軌道を持ち、既知の原子軌道の重ね合わによって分子軌道波動関数が表わされると考え、分子中の電子が原子核や他の電子の影響を受けて分子全体を動きまわるとして構造を決定する。MO法には、シュレーディンガー方程式を解く時の近似方法によっていくつかの種類がある。
計算化学
   計算によって理論化学の問題を取り扱う計算化学(computational chemistry)は、レナード=ジョーンズによって創始されたが、近年、コンピュータの処理能力が向上したため、電子の多体効果を直接的に扱う方法も取り入れられるようになっている。レナード=ジョーンズは、2つの原子間の相互作用ポテンシャルエネルギーを表すモデル「レナード=ジョーンズ・ポテンシャル」がよく知られている。詳細な物性値が得られていないガスを取り扱う時などに、既存のデータからレナード=ジョーンズ・ポテンシャルを求めることがよく行われ、ガスの物性を取り扱う現場や教科書では比較的よく目にする名前である。
   計算化学の主な手法には、分子軌道法(MO法)、経験的分子軌道法、半径経験的分子軌道法、分子動力学法(MD法、原子軌道の考え方を分子に適用、化学や生物のモデリングに利用)、 モンテカルロ法(MC法、元は中性子の運動解析用のモデルであり乱数を用いる)、 分子力学法(MM法、原子間ポテンシャルを表す式を導き分子力場を計算する)、密度汎関数法(DFT法、物理量を空間的に変化する電子密度の汎関数で表現す)等がある。
気体の液化と分子間力
   ロンドン力によって希ガスの液化が説明されたが、ここでもう一度、気体の液化、分子間力について整理する。
   理想気体は液化しないが、実在する気体は全て液体になる。
  理想気体では分子と分子の間には相互作用がないと考えるので、気体は低密度(低圧力)で高温になるほど理想気体に近づく。
  しかし、圧力が高く密度が大きくなると、分子間の距離が縮まり、分子間の相互作用が無視できなくなる。
  一方、低温になれば分子間の引力が無視できなくなり、より高圧になれば、分子間の斥力が無視できなくなり、実在気体は理想気体から大きく外れた挙動を示す。
  理想気体は存在せず、実在気体は、ある条件で液体になる。ファン・デル・ワールスが示したように、液体と気体は連続的である。液体も気体も含まれる分子はその位置を自由に変えることができ、それらは「流体」というひとくくりの物質の状態でありひとつの状態方程式で記述できる。しかし、工学的には非常に分子間力が強い状態の流体を液体と呼び、比較的分子間力が小さい状態の流体を気体と呼ぶ。蒸発や凝縮といった相転移減少も科学的というよりは工学的なものであり、気体と液体の区別は相対的なものであるが、地球上では、重力の存在が気体と液体の区別を容易にし様々な機械装置が液体と気体を区別することによって成り立っている。(宇宙空間では、気体と液体は区別されないので、固体をチリ、そうでないものをガスと呼ぶ)  液体と気体は、地球上での人間の都合による区別であり「分子間力」が大きいか小さいかが重要である。
ファンデルワールス力 van der Waals force
    原子と原子が結びついて分子を構成する力は、化学結合であり、主にイオン結合、共有結合、金属結合である。化学結合は非常に強く、これが入れ替わること、すなわち化学反応には大きなエネルギーが伴う。これに対して、分子と分子の間に働く主な力は3つ、静電相互作用,水素結合、ファンデルワールス力がある。
  気体の液化に関わる力は、(広義の)ファンデルワールス力であり、その起源には次の3つの機構がある。
   @双極子(dipole)と双極子の相互作用
 A双極子と誘起双極子(induced dipole force)との間の相互作用
 Bロンドン分散力
  @双極子と双極子の相互作用
 電気双極子は、分子内に発生する電気的な偏りであり、電気双極子による相互作用によって分子間力が生じる。イオン化していない分子は、全体としては電気的に中性であるが、分極して双極子モーメントを持つものがある(極性分子)。 双極子相互作用の力は化合物の水素結合より一桁ほど小さい。
  A双極子と誘起双極子との間の相互作用
 無極性分子であっても近くに極性分子があれば、誘起双極子が生じ、分子間力が生じる。
  Bロンドン分散力(狭義のファンデルワールス力)
 ロンドン分散力は、フリッツ・ロンドンが、分子間力に量子化学的取扱いを取り入れて見出したものである(1927年)。
  電子の挙動は、量子力学に基づいて記述されるが、電子は量子であり、その分布は「確率的」であり、「一時的な*」電子分布の偏向が生じる。この分極が「ロンドン分散力」と呼ばれる力を生じさせ、ガスの液化では引力として働いている。(*電子の運動量や軌道は不確定であり、ゆらいでいるが、時間という物理量も不確定であるから一時的という表現は正しくないかも知れない。電子はかなり高い確率で一様ではない)
   「分散」という言葉からは、データがばらつく場合の数学用語「分散(variance)」や光学の用語、光の分散(dispersive prism)などから、バラバラになるというイメージが伴う。しかし、「分散力(dispersion force)」とは、分子間に働く力である。科学用語としての 「分散力」は、分極率の分散特性から来ており、量子力学的に動的に生じる誘起双極子間の力を「ロンドン分散力」あるいは単に「ロンドン力」と呼ぶ。
   誘起双極子が他の分子によって引き起こされるのに対してロンドン分散力は自発的に生じ、全ての分子の間に分散力が働く。ロンドン分散力は、他の分子間力が大きい場合は目立たないが、窒素のような無極性分子では、主要な分子間力である。また、クーロン力は距離の2乗に反比例するが、ロンドン力(引力)は、距離の7乗に反比例(ポテンシャルが距離の6乗に反比例)するため、非常に近距離で強く働く。
  アルゴンやヘリウムのような希ガスであれば、ロンドン分散力以外の2つの相互作用は全く生じないため、ロンドン力が唯一の分子間力である。
  したがって、もし量子力学的なこの力がなければ、窒素は非常に液化しにくい気体となり、アルゴンやヘリウムは、いくら圧縮し低温にしても液化しない永久気体ということになる。
  1920年代までは、無極性分子に働く力の起源が分からず、一時は重力(万有引力)説まで現われたが、フリッツ・ロンドンによって量子力学的に説明された。二分子間のロンドン力は非常に小さいが、多く集まると気体の液化だけではなく、有機物の結晶や生体組織の集合体などの構成にも寄与する重要な力となる。
   量子力学の解釈、特に量子の持つ二重性(波と粒子)と不確定性については20世紀初頭に大きな議論が起こった。しかし、不確定性原理を認めず物理学は決定論的であると解釈すれば、アルゴンやヘリウムの液化といった非常に身近な現象ですら理解することができない。ガスの科学には、量子力学、不確定性原理とは切り離して考えることができない量子化学が必要である。
 
分子間の相互作用の強さの比較
イオン間相互作用
1000
水素結合
100
広義のファンデルワールス力
  双極子相互作用
10
  双極子とそれによる誘起双極子との相互作用
10
  ロンドン分散力(狭義のファンデルワールス力)
1
万有引力
10-35