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第69回 熱力学的時間の矢

 2018/06/11


時間の矢
 相対性理論とミンコフスキー空間の時空の概念によって、時間と空間を区別せずに対等に扱われるようになった。実際に相対論的粒子は、空間だけでなく時間についても対称であることがわかった。たとえば、二つの粒子が衝突する時の反応は、可逆反応であり、過去と未来の区別がつかない。反応を映像に撮影したとして、それを逆回しにして再生しても、方向の区別がつかないため、過去と未来をきめることができない。
   しかし、われわれが知っているマクロスコピックな世界では、時間は一方向にしか流れておらず、反応は不可逆過程である。特に、ガスを分離することによって成り立っている産業ガスの分野では「熱力学の第二法則」が絶対的な原理のように存在している。よく混ざっている空気は、エントロピーが大きい状態であり、これを分離してエントロピーが小さい状態を作ることによって商売が成り立っており、勝手に空気が分離したり、容器の中の混合ガスが分離したりしない。熱力学の第二法則=エントロピー増大の法則がある。熱いお湯と冷たい水を混ぜてぬるま湯を作ることはできるが、ぬるま湯が自然にお湯と冷水に分かれることはない。
 
   空間の研究と同じように時間の研究が行われている。空間は自由に移動できるのに対して、時間は一方向にしか流れているようにしか観測できないことを「時間の矢」(arrow of time)と呼ぶ。素粒子や量子の世界では、ほとんどの法則が時空対称であり、基本的に過去と未来の区別がない。しかしその他の法則の場合には、時間の矢が存在する。アインシュタインの相対性理論を研究し、それを実証したことでも知られるアーサー・エディントン(1882〜1944年、英国)が最初に「時間の矢」という言葉を使った。時間の矢には次の5つがある。
   @「熱力学時間の矢」:エントロピーが増大する方向、すなわち「情報量が減少する方向」にしか事象が進まないという法則である。 A「波の時間の矢」:たとえば水面に石を投げた時に波が中心から外側に向かって広がることはあるが、その逆のことは起こらないというもので、熱力学時間の矢から説明される。 B「進化の時間の矢」:一見、エントロピーが減少しているように見えるが、それは太陽や地球のような巨大な「低エントロピー資源」によるものであり、より大きな系で観測するとエントロピーは増大し、熱力学時間の矢の方向と変わらない。 C「意識の時間の矢」:人間のような生物が、過去からの情報を順序をつけて記憶することによって生じる時間の流れ。生まれたばかりの時は、過去の記憶がないため、意識の中には時間の流れが存在しないが、情報が増えることによって時間の矢が生じる。物理学的説明は難しいが、コンピュータにも同様に時間の矢が存在する。 D「宇宙論的時間の矢」:無から宇宙が始まり、時空が生まれ、終焉するという流れのながで考察される時間の方向である。
 
 対称性を重要と考える物理学において、時空対称性のうち、多くの場合に時間だけが非対称に見える現象は、未解決課題のひとつであり、様々な研究が行われている。熱力学時間の矢については、ある程度の説明がなされている。
 図の上には、容器の中に酸素分子がひとつ、窒素分子がひとつだけあった状態を示している。分子は運動しており、酸素と窒素の位置は入れ替わっているが、それを映像に残して反転して再生しても全く見分けがつかない。右の容器と左の容器は、どちらが過去でどちらが現在、あるいは未来なのかを見分けることができない。
  これは、何も変化が起こっていないのと同じことを意味しており、ここでは、時間は流れていないと言うことができる。
 次に容器にもっと数の多い酸素分子と窒素分子を置いて、非常にエントロピーが小さい状態(情報量が多い状態)から時間が始まるとすると、図の左下の容器のような状態が考えられる。
   時間がたつと、酸素分子と窒素分子は分子運動によって互いに場所を入れ替え、次第に混ざり合っていくので図の右下のような状態に近づく。
  分子が動くにつれて、窒素と酸素が左右に分かれている状態の確率よりも、適当に混ざっている状態の確率の方が大きいため、最終的には、均一に混ざってしまい、エントロピーが大きい状態(情報量が少ない状態)、図の右下のようになる。この場合、どちらが過去でどちらが未来のことであるかは明らかであり、時間は「熱力学時間の矢」の方向に流れていることが判別できる。 過去と未来は区別することができ、その方向も決まっている。
   同じ二種類の分子であっても上の図のように分子が1つずつしかない時は、時間の流れを見分けることができないが、分子の数が増えてくると「時間の矢」が現れてくるのである。時間の矢は、粒子の数が増えることによって初めて現れる現象と理解されている。実際の容器の中の分子の数は、これよりも1020倍以上も多く、混ざる前と混ざった後は、必ず認識することができる。われわれの世界はとてつもなく多くの粒子が集まってできており、過去と未来は見分けがつく。 当たり前と言えば当たり前なのだが、図の左側(分離した状態)が過去で図の右側(混合した状態)が未来というのは、何故なのか、エントロピーが増大する方向にしか変化が起こらないという「理由」がはっきりとしない。
   熱力学第二法則は、エネルギーの移動の方向とエネルギーの質に関する法則であるが、エントロピーの概念を取り入れて様々な表現がなされている。そのうちのひとつが「断熱系において不可逆変化が生じた場合、その系のエントロピーは増大する」というものであり、この表現が「熱力学時間の矢」を説明している。しかし「微視的可逆性」と「巨視的不可逆性」の関係は、厳密には証明されておらず、熱力学第二法則は未完成なままと言える。
 
   熱力学第二法則が破れない限り、混合ガスは、ひとりでに(自発的には)分離されることはない。自然の成り行きではエントロピーが減少する方向には時間は流れないからである。われわれの時間は熱力学時間の矢の方向に流れており、第二法則の破れは見出されいない。
 自発的に分離しない空気を分離して酸素や窒素を製造するためには、「低エントロピー資源」すなわち「分離エネルギー」を投入する必要がある。
 ガス屋の仕事というのは、分離の仕掛けと分離のエネルギーを利用して、混合ガスを分離して販売するものであり、分離技術は、ガス分子の階層のタイムマシン技術ということになる。実際に時間を巻き戻すことはできないが、混合する前の状態、すなわち過去の状態を作るのが分離技術である。
ガスが混じっているということの意味
   産業ガスの製品の中に、「混合ガス」「標準ガス」といった純ガスではない製品も多い。特定の組成に調合されたガスを容器に充填して供給するものである。このようなガスを長く使っていると「容器の底に重いガスが偏ってしまい所定の濃度のガスが得られなくなる」といった不安を抱えるユーザーもいる。
  これは、生コンセメントやドレッシングのように放置すると重い成分が沈殿する現象からそのように考える人がいるようである。容器の中のガスが(地球の)重力で分離することはあり得ない。
  確かに地球の表面から上空へ向かって大気の組成を見ていくと、対流圏と成層圏は、ほぼ空気の組成であるが、高層大気になると、窒素分子、酸素原子、ヘリウム原子と重い方が下、軽い方が上に重なっている。気体言えども、重いものが下に沈み軽いものが上に浮かぶ。しかし、高層の大気は極めて希薄で、分子間力が届かないほど分子同士が離れている。これを流体(気体あるいは液体)と呼ぶことは難しい。もし。気体と考えることができるとしても、最初から混ざっていないのである。地上の空気はよく混ざった混合気体であるが、超高層の大気は混ざるほどの量がないので分離しているように見える。
  では容器の中のガスはどうか。高層大気に比べると桁外れに分子の量が多く、温度も300Kほどであるから、容器の中の分子は激しく運動しお互いぶつかりながら容器の壁に「圧力」を与えている。一度きれいに混合されてしまったガスを分離するには、分離に見合ったエントロピーを減少させなければならず、低エントロピー資源(すなわちエネルギー)を与えなければならない。地球の重力程度では容器の中のガスを分離させることができないことは容易に想像できる。もし高圧ガス容器の中の混合ガスが重力で分離するのであれば、大気圧の空気はアルゴン、酸素、窒素の順に分離されているはずであるが、実際にはそうはなっていない。
  混合ガスを製造する工程に「ローリング」というものがある。高圧ガス容器は概ね1.5MPaの圧力で充填されるため、容器の中に混合ガスを調整した直後は、十分には混合されておらず均質にはなっていない。濃度や圧力にもよるが、拡散して一様になるにはかなりの時間がかかり、すぐには分析作業にかかれない。混合ガスは必ず出荷前にガスをサンプリングして分析を行わなければならないが、容器の中には攪拌装置はないため、自然に拡散して混合ガスが均質になるのを待つしかない。そこで、容器を温めて拡散を促進する方法が有効であり、容器を一様に温めるために回転させる。ドレッシングの瓶を振って混合させるのとは仕組みが違うが、それなりに時間は短縮できる。
  ドレッシングの中の水と油はそもそも混ざっていない(混合液体にはなっていない)ので重力で簡単に分離してしまうが、容器の中で混ざってしまったガスは、これを外から分離させる方法はない。低エントロピー資源があっても中に供給する方法も分離する仕掛けもないからである。
  しかし、非常に長期間使い続けた容器の場合、微量の反応性ガスであれば容器の壁と反応したり吸着されたりして組成が変化する可能性が無い訳ではない。ほとんどのガスは非常に乾燥しているため、よほどの反応性の高い成分でなければ化学反応が起こることは考えにくいが、ガスにも品質保証が可能な期限はある。もし長期間使い続けたガスの組成が変化しているようにみえたら、メーカーの推奨期限を超えて使用したことで化学変化があったのかも知れない。ガスが容器の中で分離することはない。