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第59回 現代物理学と量子論 3−2 前期量子力学(1)エネルギー量子(2)光量子

 2018/04/15

                          

3−2 前期量子力学
(1)エネルギー量子 量子の性質、量子はとびとびの値をとる
   量子は、量子という粒子やものがあるのではなく、量子の発見とは、量子の性質を持つものがあるということであり、量子という概念の発明である。きっかけは、製鉄である。
製鉄では、良質の鉄を得るために、溶けた鉄の温度を正しく知る必要があり、19世紀末の科学者や技術者の重要な仕事のひとつに、炉の温度を正しく測るということがあった。高温の鉄の温度は、直接温度計を用いて測ることができないため、炉から輻射(放射)される光の観測が行われた。プランクもそのような科学者・技術者の一人であったが、炉から漏れ出る光を詳細に調べている時に、そのエネルギーが連続しておらず、とびとびの値をとることに気づき、ここを出発点に「エネルギー量子」の概念が作り出された。
 シュテファン=ボルツマンの法則
 プランクより少し前、ヨーゼフ・シュテファン(18351893年、スロベニア)が、熱輻射によって黒体(black body)から放出される光(電磁波)のエネルギーと温度の関係を実験的に明らかにした(1879年)。その弟子ルートヴィッヒ・ボルツマン(18441906年、オーストリア)がこの結果を理論化し(1884年)、熱輻射により黒体(外部からの放射を完全に吸収、放射する仮想の物体、完全放射体、black body)から放出されるエネルギー(黒体放射)は、黒体の熱力学温度の4乗に比例するという「シュテファン=ボルツマンの法則」が示された。
            
   ここで、Kは放射エネルギー(放射束密度、[W/m2])、Tは熱力学温度 [K]、σはシュテファン=ボルツマン定数[W/(m2K4]である。
 この法則は、電磁気学、熱力学、統計力学など様々な科学分野にとって重要な基礎的な法則であり、量子力学のきっかけを作った法則である。
   低温機器を取り扱うときに必要な断熱技術の中に、真空によって熱伝導を抑えるという方法(真空断熱)があるが、空気を抜くことによって伝導伝熱や対流伝熱が低く抑えられたときに効いてくるのが、輻射伝熱である。輻射のエネルギーが熱力学温度の4乗に比例するという知見は重要である。
  シュテファン=ボルツマン定数は、実験から求めることもできるが、後に提出されたプランクの法則から理論的に他の物理定数(普遍定数、ボルツマン定数とプランク定数と光速度)から導くことができ、  と求められた。
   シュテファン=ボルツマン定数σを知れば、観測される輻射エネルギーを用いて、遠くにある物の温度、たとえば太陽の表面温度などを比較的容易に推測することができる。太陽の直径から太陽の表面積を求め、地球までの距離と地球の直径から、地球の単位面積に対して太陽から放射されるエネルギーが計算できるので、地球上に降り注ぐ太陽光のエネルギー(熱量)を測定して、シュテファン=ボルツマンの法則を用いると、太陽の表面温度が約5800Kと計算できる。太陽の近くまで行っても直接温度を測定する温度計はないが、太陽まで行かなくても地球上で輻射のエネルギーを測ることによって、太陽の温度を求めることができる(ただし測定には、地球大気の影響などが含まれる)。
 ヴィーンとレイリー
   続いて、ヴィルヘルム・ヴィーン(18641928年、ドイツ)によって、横軸を光の周波数、縦軸を強度としたスペクトルのグラフのピークが、温度の上昇とともに周波数の高い方(波長の短い方)にずれるという「ヴィーンの変位則」が見出された(1893年)。
 温度が変わるとその物体の色が変わって見えるのは、ヴィーンの変位則によって光のスペクトルのピークがずれるためであり、この性質を利用して放射温度計が発明されている。
 ヴィーンは、ヴィーンの放射法則(放射強度と周波数の関係、黒体から放射される電磁波のスペクトルを表わす式)を得た(、νは周波数、a、bは定数)(1896年)。これは、ヴィーンの変位則に従いながら、その積分がシュテファン=ボルツマンの法則を満たすと分布として求められた。
 
 この功績で、ヴィーンはノーベル物理学賞を受賞した(1911年)が、この式から得られる結果は、光の波長が短い時(周波数が高い時)には、実験結果によく一致したが、波長が長い(周波数が低い)時の実験結果には合わなかった。 
   当時は、周波数が低い部分の測定実験はまだ難しかったということもあったが、研究者の多くは、ヴィーンの放射法則は部分的に合わないことを惜しいと考えるのではなく、ヴィーンの研究そのものが、物理学的にあいまいな点が多く、本質的な部分が抜け落ちていると指摘、周波数が高いところで一致しているのではなく、そのように式の係数を合わせ込んだだけのものと考えた。
  ヴィーンは、空洞の放射が分子の運動に起因しており、光のスペクトル分布は分子の速度分布であると考えたが、これは論理の飛躍であり、現在の物理学では完全に誤っている。
 ヴィーンの放射法則に不満を持った学者のひとりレイリー卿(ジョン・ウィリアム・ストラット、1842〜1919年、イングランド)は、ヴィーンの理論の弱点を批判し、これに代わる理論として、電磁波の理論と統計力学からレイリーの放射法則を提案した(1900年)。あのアルゴンを発見したレイリーである。
   この時、提出されたレイリーの論文には、数値の誤りがあり、これをジェームズ・ジーンズ(18771946年、イングランド)が修正したため、「レイリー・ジーンズの放則」と呼ばれている(1905年)。
 レイリーは、非常に多くの物理学の業績が知られ、産業ガスの分野ではアルゴンの発見、工学の分野では次元解析の提唱など、われわれが日常的に使っている多くの知見がレイリーによるものである。黒体から放射される電磁波のエネルギー密度の理論式であるレイリー・ジーンズの放射則も、古典物理学的には洗練されていた。
 しかし、レイリー・ジーンズの放射則は、周波数が低いときの実験結果をよく表わすことができたが、周波数が高い時の実験結果は全く合わなかった。これは、レイリー・ジーンズの法則が、光が波であり、波のモードに対してエネルギーが等配分されるという古典物理学の仮定に基づいているためであり、輻射の全エネルギーを積分して求めると無限大になるという問題が残されていた。
 シュテファン=ボルツマンの法則は、熱力学温度と光のエネルギーの関係を示し、ヴィーンの変位則は温度と光のスペクトルピークのずれを明らかにし、ここまでは、古典物理学で光(電磁波)の振舞いを説明できていた。しかし、ヴィーンの放射法則もレイリー・ジーンズの法則もスペクトル解析の結果(放射強度と周波数の関係)を説明することができなかった。
 プランク
   プランクは、光のエネルギーが、ある最小単位の整数倍の値しか取ることが出来ないと仮定して「放射に関するプランクの法則(Planck's law)」を見出した(1900年)。これによって、ヴィーンの放射法則(1896年)やレイリー・ジーンズの法則(1905年)が実験結果を正しく表わさないという問題が解決された。
 その後の量子論が明らかしたことによれば、「ヴィーンの放射法則」と「レイリー・ジーンズの法則」の黒体輻射に対する物理学のアプローチは、部分的に合っていて部分的に間違っていたというものではなく、いずれも、根本的な部分で古典的な物理学が破綻し、限界に達していたということを示した。
 
 それぞれの放射則から求められる周波数と輝度の関係は、図のようになり(温度は任意)、プランクの法則だけが実測値を正しく説明することができた(実測値は図示していないがプランクの法則と一致)。 
 結果的には、ヴィーンが1896年に発表し1911年にノーベル物理学賞を受賞した「熱放射の諸法則に関する発見」は根本部分が間違った理論であり、プランクが1900年に提唱し、1918年にノーベル物理学賞を受賞した「放射に関するプランクの法則」が正しい物理学であった。
   しかし、ヴィーンが放射法則を見出した時は、低周波数領域の実験は難しく、しばらくの間はこの理論が有力と思われ、最先端の発見と判断されて受賞したノーベル賞が取り消されることはなかった。現代では99.9%以上の確証が得られないと授与されないと言われるノーベル物理学賞にもこういう時代があったということである。
   黒体から放射される電磁波の分光放射輝度B(放射面の単位面積、立体角、周波数あたり)は、周波数(振動数)νと熱力学温度Tの関数として次のプランクの式で表わされる。
       
   ここで、h はプランク定数、k はボルツマン定数、c は光速度である。
   プランクの放則からは、高周波数領域におけるヴィーンの放射則と低周波数領域におけるレイリー・ジーンズの放射則を近似的に導くことができ、周波数領域を積分することによってシュテファン=ボルツマンの法則が得られ、シュテファン=ボルツマン係数を理論的に求めることができ、極大値からはヴィーンの変位則が得られる。
 プランクの法則には、ヴィーンの放射法則やレイリー・ジーンズの法則と同様に光の速度、熱力学温度、ボルツマン定数、周波数が含まれ、アプローチは似ているようにもみえるが、新たに「プランク定数」という量子論を特徴付ける物理定数が加えられた点が最も大きな違いである。
   プランクがこの法則で示した重要な点は、光が持つエネルギーは、振動数に比例するエネルギー素量()の整数倍の値のみを取り得るという「エネルギーの量子化(quantization)」の概念である。これは、ヴィーンの放射則やレイリー・ジーンズの放射則が プランクの法則の部分法則として正しいということではなく、量子論がそれまでの物理学の概念とは決定的に異なるということを示している。
    その後、光は光子(光の粒子)という量子であることがわかり、波であった光は、光子という粒子として数えることができるようになり、光のエネルギーは、エネルギー素量に光子の「数」nをかけて、と表わされた。
エネルギーがとびとびであることを認めなかった天才たち
   最小単位、「量子」の概念の「発明」は、その後の物理学を大きく変えたが、プランクの論文が提出されたのは、19世紀の最後の月、190012月のことである。プランクの法則によって、それまでの黒体輻射に関する法則の問題が解決されたが、時期的には、プランクの法則(1900年)が発表された後からレイリー・ジーンズの法則(1905年)が発表されており、プランクの法則が、はじめからすぐに認められたというものではなかった。
   プランクが論文を発表した時、プランクは42歳、既に数々の業績を上げて学界の超大物であったレイリーは58歳である。レイリーは、プランクの結果を認めず、その後も量子論、相対論を嫌悪し批判を続けたという。物理学における多大な業績が知られ、アルゴンの発見で既にノーベル物理学賞(1904年)を受けていたレイリーであるが、「古典物理学」からは抜け出すことはできなかった。(レイリーの業績については「アルゴンの発見」)レイリーは、プランクの式が実験結果をよく表すことを認め、自らの式は合わないことも認めていたが、それでもプランクの理論やその後に現れる量子論の様々な結果を認めることはなく、生涯、量子論を嫌悪していたとされる。
 同じ時代、ジュール・トムソン効果などで知られるケルビン卿(ウィリアム・トムソン)も、現代物理学を認めなかった物理学の大家として有名である。自身の輻射の理論から、地球の年齢は1億年以下と主張、アーネスト・ラザフォードから放射性物質や放射性年代測定から7億年前のものという石を見せられても、これを信じようとしなかった。ケルビンは、原子(原子核)が崩壊することやその熱によって地球が何億年も冷えて固まらずにいるということを、どうしても受け入れることができなかった。
  ケルビンやレイリーは、数々の業績を挙げた偉大な物理学者であり、熱力学からガスの科学まで、ガス屋にとっても極めて重要な人物である。しかし彼らほどの天才であっても、20世紀の新しい科学は受け入れ難く、信じることができないほどのものであった。
 
 プランクは、量子論によって20世紀の科学を切り拓いたが、その功績が認められてノーベル物理学賞を受賞したのは、18年も後、プランクが60歳になった時である(1918年)。1901年に始まったノーベル物理学賞も、まだ新しい科学には追いついてこなかった。それまで、物理量は、連続した値をとるものと信じられており、いくらでも分割できると思われていた。しかし、プランクが示したように、エネルギーは連続していなかった。量子の世界は、非常に小さな「極微の世界(ミクロスコピックな世界)」であり、「何らかの性質を失わない最小の単位」、「とびとびの値」というものが存在した。自然界は数学のように滑らかで連続的であると信じていた人々は考えを改めなくてはならなくなった。
1915年、57歳、
ノーベル賞を受賞する前のプランク
 
 数学の数は、どこまでも分割でき、連続という概念があるが、量子論は、自然はそのようにはできておらず、連続ではない物理量の最小単位があることを示している。ただし、プランク定数は、SI単位で表すと6.626070040(81)×10-34Jsという非常に小さな値であるため、これに周波数ν(単位はヘルツ、s-1)をかけたエネルギー素量(エネルギー量子)も非常に小さな値である。古い考え方のままでは、連続とみなせるほど小さい。
 しかし、連続であるということと、値は小さくとも、それがとびとびであるということの意味の違いは大きい。 20世紀からは、エネルギーだけでなく多くの物理量が最小単位の整数倍で表わされ「量子化される」ようになっていくが、このとびとびの値という概念は、エネルギー量子を見出したプランク自身でさえも、しばらくは、受け入れることができなかったといわれる。
1933年、75歳、
物理学の大家、量子論の父と呼ばれるプランク
   プランクから始まる量子論が、さらに発展するためには、新たな概念、新たな理論、新たな数学的手法、実証実験が必要となった。しかし、その後、わずか四半世紀の間に、量子論には数多くの天才が現れ、プランクが提唱した量子の概念は、輻射の問題だけでなく、その後に現われた物理学の諸問題に対して、非常に有効な解決策を示していった。
  分子、原子の世界には「量子化学」、原子や原子核の世界には「量子電磁気学」、素粒子の世界には、「量子色力学」といった新たな物理学の体系が構築された。しかし、19世紀までの古典物理学は完全に否定されたのではなく、その理論や観測事実は、新たな解釈によって再構築され、それまで見えていたものは量子論によって「巨視的な観測」と理解されるようになった。古典物理学は現代物理学に組み込まれ、部分法則や近似解とし継承されていった。
 

表 放射の研究・古典物理学から現代物理学へ

提唱年

提唱者

法則・説

主張

結果など

1884

ルートヴィッヒ・ボルツマン

シュテファン=ボルツマンの法則

黒体放射は熱力学温度の4乗に比例する

放射に関する研究のきっかけとなる

1893

ヴィルヘルム・ヴィーン

ヴィーンの変位則

温度の上昇とともにスペクトルピークが周波数の高い方にずれる

光高温計の仕組み

1896

ヴィルヘルム・ヴィーン

ヴィーンの放射法則

光のスペクトル分布は分子の速度分布である

1911年ノーベル物理学賞、結果的に誤り

1900

マックス・プランク

プランクの放射法則
エネルギー量子仮説

光が放射するエネルギーは、とびとびの値しかとらない

1918年ノーベル物理学賞
量子論のはじまり

 

ジョン・ウィリアム・ストラット

レイリーの放射放則

電磁波の理論と統計力学から

古典物理学の限界

1905

アルベルト・アインシュタイン

光量子仮説

光は波である 「光波」
光は粒子である「光子」
光は量子である「光量子」

1921年ノーベル物理学賞。17世紀からの光の波動説・粒子説論争に決着

 

ジェームズ・ジーンズ

レイリー・ジーンズの放則

レイリーの放射放則を修正

古典物理学の限界

量子化、アナログとデジタル
   量子論によって、実際の世界は、連続するものがないということが示された。
 しかし、ミクロスコピックよりもずっと大きな階層、マクロスコピックの階層には、連続の量(アナログ)と離散的な量(デジタル、とびとびの値、「計数」)という計量の考え方が存在する。
 量子論によって現実の世界(エネルギーと物質の世界)には、連続というものは存在しないということが分かったが、一般の生活や工学の分野では、様々な現象を実質的に連続とみなすということが続けられており、現実の現象を、数学のようにアナログ(analog)とデジタル(digital)に区分して取り扱うことが行われている。人が絵画や音楽のような芸術を楽しむ時には、画像や音を画素や音の最小単位にまで分解して鑑賞することはない。
  しかし、写真やディスプレイの滑らかで連続的にみえる画像も、大きく拡大すると印刷の粒子や発光素子の大きさ、最小単位が見えてくる。音もそれを構成する波に分解し、それぞれの波をさらに細かく見ていくと、最小単位のようなものが見えてくる。映像も音もけっして連続していることはなく、全てとびとびの存在が集合したものである。
  デジタルカメラの撮像素子も銀塩カメラの感光剤も液晶ディスプレイの画素もとびとびに存在し、これが、連続して見えるのは、受け手の分解能が最小単位よりも大きく、最小単位を認識できないためであって、厳密にはアナログというものは存在しない。そのためかどうかは知らないが、デジタルカメラのデジタルとは、画像情報のデジタルデータ化に由来し、対義語にアナログカメラという言葉はない。
    実学の世界、応用科学の世界では、自然は非常に滑らかで連続的に見えることが多い。しかし、厳密に言えば、自然界には連続したものはなく、アナログというのは人間が勝手にそう思っているだけであって、デジタル化しなくても全てのものが最初からとびとびなのである。これはエネルギー、時間、空間、物質、全てにおいて同じであり、どんどん小さく分割していくとどこかで、それ以上分割できないところに行き着くということが自然の本質であって、数学のようにはなっていないのである。
    映像や音の世界の情報は、マクロスコピックな階層の波の情報であるから、これらの世界の「デジタル化」を、ミクロスコピックの階層の特徴である「量子の概念」と同列に扱うことはできない(厳密には音はマクロの波、光はミクロの波)。しかし、これら通常は連続的に見えるものであっても、観測の方法を変え、処理方法を変えると、とびとびの量が見えるようになり、現象の理解が深まり、高度な処理が可能になるなど、様々なメリットがある。
 通常の方法では「連続に見える」アナログ量を離散化し、「デジタル化(digitize デジタイズ)」するという手法が、物理学の量子化の概念に通じるところがあるため、このような処理を「量子化(quantization)」、「とびとびの計数化」と呼ぶことがある。物理学のミクロスコピックの階層特有の量子の概念を全く異なる階層に当てはめ、その処理法を「量子化」という言葉で表すようになっている。
  情報のデジタル処理は「情報の量子化」とも呼ばれ、日本語では「電子化」と呼ぶこともある。英語でも文字情報を記号にして送る通信を「e-mail」などと呼ぶので、電子化という言葉は日本語だけのものではない。この電子化という言葉には正しい意味が含まれていないが、電子技術を用いた処理が行われ「情報の電子化」が行われると表現する。ただし、「電子」という言葉は乱用されることが多く、日本語で「電子レンジ」と呼んでいる機械は、マイクロ・ウェーブ・オーブンのことであって電子や電子化とは全く関係がない。
   画像や音響だけでなく、様々なアナログ情報のデジタル変換、取扱いが一般的に行われるようになっている。測定技術、圧縮技術、高密度保存技術やコンピュータによる処理技術などのデータ取り扱い技術の急速な向上に伴って、「デジタル化」「量子化」が進んでいる。たとえば、放送や通信の「デジタル化」によって従来のアナログ処理よりも性能・品質が格段に向上している。
  そのため、デジタル=ハイテク、アナログ=ローテクと思われがちである。しかし、デジタルはアナログと信号の処理方法や取り扱い技術が異なることによって、そのメリットが活かしやすいということはあるが、本質的な物理量は変わっておらず、全ての分野でデジタル技術の方が従来のアナログ技術よりも進化していると決め付けることもできない。
   古い技術や考え方を、「アナログ的」だと揶揄し、進んだ技術を「デジタル技術」と称するのは、全く間違っている。たとえば、そろばんは、典型的なデジタル計算機であるが、特にハイテクという訳ではない。
(2)光量子
   「とびとび」の値が顕著に現れるのが量子の特徴である。
 前期量子論の第一段階で、プランクは、光のエネルギー量子説を唱えたが、アインシュタインは、プランクが行った「エネルギーの量子化」は、電磁放射そのものの性質であると提案、電磁波である光は波であると同時に粒子と呼ぶことができることを示唆、光は量子であるという「光量子仮説」を唱えた(1905年)。
 多くの物理学者は、電磁放射自体が粒子であるということをにわかには信じることができず、プランクが行ったエネルギー量子化以外の量子化は、しばらくは、物質だけにとどまっていた。しかし、その後の20年間に行われた様々な実験によって光も粒子であることが確かめられ、「光量子」「光子」と呼ばれるようになった。
 現在、光を主に波として取り扱う時は「光波」、粒子として取り扱う時は「光子」、両方の性質を考える時は「光量子」と呼ぶのが一般的である。光には、波であるという事実と、粒子であるというもうひとつの事実があり、光は光量子であるというひとつの真実が明らかにされていった。