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第56回 カラム(7) 科学の「原理」

 2018/03/13


 原理は、自然の本質を解釈し表現する人間の言葉である。自然の本質は変わらないが、人間が考える原理は、新たに発見されたり、時には破れてしまうため、時代によって異なった原理のもとに科学が構築されている。
  自然科学の原理は、滅多なことでは変わることがないが、20世紀になっても新たな原理の発見、古い原理の破れが起こっており、それが新たな科学の発展につながっている。20世紀初頭に科学の基盤となる物質の構造や起源、時間や空間(真空)に対する概念が大きく変わり、様々な古典的な科学は再構築されていったが、17世紀に始まるガスの科学もこの時に大きく変わった。
 自然科学における原理とは、極めて重要な概念である。しかし、この用語は、非常に安易に用いられ、誤用、乱用されることも多い。科学の原理について考察したい。
@原理の定義
   数学では、自明なものが公理(axiom)であり、公理に基づいて演繹されるものが定理(theorem)である。
 数学の定理や公式(formula、数式で表わされる定理)は、ほとんどの場合、証明ができており、証明ができない、あるいは必要としない公理あるいは原理と呼ばれるのものは、非常に少ない。
  たとえば、ユークリッド幾何学の公理系では、「三角形の内角の和は180度である」という命題が、公理に基づいて証明可能な定理となる。しかし我々が住む地球の表面では、この定理は正しくなく「三角形の内核の和は180度より大きい」。平面や歪みのない空間が存在するという前提、公理の範囲のみで前述の命題が証明できる。数学の定理は非常に多く見出されているが、その基本となる公理は、当然のことながらそれよりもずっと少ない。
    数学の公理に相当するものが、科学では「原理(principle)」と呼ばれる。
  社会科学における「原理」は、基本法則や根本法則を指しており、「民主主義の原理」「多数決の原理」などいった使われ方をする。このような原理は社会の共通概念、最上位の規律などを意味する。
  自然科学における「原理」は、自然の本質、その解釈、あるいは概念を指している。自然科学の原理は、数学の公理のように、自明となっていないことが多く、誰が見ても同じように理解されるとこともないため、その解釈をめぐって大きな論争になることも多い。
  自然はありのままの姿を我々の前に現すことがあまりない。空を見上げると、太陽や月は東から昇り西に沈む。星星は我々を中心にして回っているように見える。古来からある天動説は、全ては我々を中心にして回っているという宗教的な立場から信じられてきた。しかし、様々な物体の運動を考える時、地球は自転しており、月は地球の周りを公転、地球と月は太陽の周りを公転していると考えるほうが合理的だと考えられるようになった。古代ギリシャにもあった太陽中心説(地動説)は中世になってコペルニクスによって再発見され、ついには天動説という原理は破れ、地動説という新たな原理にとって変わった。その地動説も、宇宙の中で我々の太陽系だけを考えるという局所的な系の場合に成り立つのであって、現在では、宇宙のどこにも固定された点や中心などといったもが存在しないと考えるのが最も理に適っている。
 20世紀になって、それまでの絶対空間・絶対時間原理は破れ、光速度一定の原理が正しいとと考えられるようになった。その方が、理に適っており、観測される現象を正しく記述できるからである。ラプラスの悪魔に代表される決定論的物理学は間違いで確率密度で表わされる不確定原理が自然の本質となった。不確定性原理を認めなければ現在の科学のほとんどが説明しきれない時代になった。20世紀中頃には、宇宙(時空)は最初から存在していたとする定常宇宙論は破綻し、時間も空間も最初は存在しておらず、宇宙は進化をしていると考えるビッグバン理論やインフレーション理論が評価されるようになった。
  自然科学の本質は何も変わっていないが、人々がそれを解釈する「原理」は変わってきている。
   
   自然哲学や自然科学における「原理」の定義:
 「他のものを規定するが、それ自身は他に依存しないもの(根源的なもの、根本的なもの)」を原理と呼ぶ。
  辞書的には、曖昧なところはない。
   すなわち、自然科学の原理は、成立のための理由を必要とせず、また、法則や定理のように証明をすることができない。逆にいえば、証明できるものや理由を説明できるものは、論理的に原理とは呼ばないということであり、このようなものは、法則と呼ばれる。法則は単独では存在せず、その法則を規定するより上位の法則が必要であり、その最上位のものが原理ということなる。
    科学における法則(自然法則、law of nature)とは、ある関係が必然性や普遍性を持つことであり、理論や実験によって科学的手法によって証明することが可能であるか、あるいは間違っていないことが経験的に確実になっているものである。たとえば、ボイルの法則やドルトンの法則などは、理想気体という仮想の物質を仮定した時に、その法則を証明できる「理想気体の法則」である。
  法則の証明は、より上位の法則、既に証明されている法則、数学的手法、普遍性のある実験結果、観測結果などを用いて行われる。発見者は科学的手法に基づいてのみ人々を納得、理解させることができる。
   これに対して、これらの法則の大前提になっている原理は、証明する手段・方法がない。
  原理に矛盾がないか、あるいは、どこかに原理が破れているという事実はないかといった議論は可能である。しかし原理に関連するどのような法則を証明しても、それは元の原理が前提となっているのだから、それは原理を証明したことにはならない。
   たとえば、アインシュタインの特殊相対性理論は、「相対性原理」と「光速度一定の原理」に基づいて組み立てられた理論体系であるが、この理論が矛盾していない、あるいは観測結果と一致しているからといって、この理論の元になっている原理が正しいということは証明されない。
 そもそも、原理を証明するという文言自体が言語として論理矛盾しており、光速度一定の原理は証明を試みることができないのである。光速度が一定であるという本質を認めることによってはじめて、時間や空間が絶対的ではなく伸び縮みするものであるという自然が理解できる。光速度が一定であることには理由がなく、そう考えるのが最も理に適っているということである。アインシュタインが特殊相対性理論を提唱する前から、真空中の光速度が一定であるという観測結果が得られていたが、これを法則として証明することはできておらず、これが原理だと考えることによってようやくつじつまがあった。(そのかわり、時空の方が伸び縮みするという当時の人達が容易に理解できない帰結が提示された)
    「最小作用の原理」は、物理学における最大の指導原理といわれる自然の本質である。
  これは、古典力学であっても量子力学であっても同じであり、非常に複雑にみえる法則であっても、たいていのものは、この原理ににたどりついて説明することができるとされている。
  「作用」は、ラグランジアンの積分(のようなもの)である。ラグランジアンは、その後に考案された用語「運動エネルギー」と「ポテンシャルエネルギー」を用いると「運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差」であり、「最小作用の原理」に従って、全ての運動は、このラグランジアンの重ね合わせが最小になるように起こる。
  「最小作用の原理」は、物理や様々な読み物の中で、いろいろな表現で解釈されているが、日本語版Wikipediaであれば、「物体の運動(時間発展)は、作用積分と呼ばれる量を最小にするような軌道に沿って実現される」 とある。
 物体や光は、最短距離や最短時間の経路を進むように見えるが、いくつかの経路を試してから、その経路を決めているのではなく、全ての粒子は、作用が最小になるような経路をまるで知っていたかのように動く。これは自然の本質であって、なぜそうなるのかという理由がない。原理には理由がない。
   力学を中心とした物理学における「最小作用の原理」や幾何光学における「フェルマーの原理」(光は最短時間で進む)などは、数学における変分原理の一部であって、これらの原理そのものは証明されることのない自然の本質である。この他にも、いかなる座標系においても物理法則は不変であるとする「相対性原理」や宇宙では同じ法則が成り立ち、どこにも特別な場所や中心がないという「宇宙原理」なども自然のもつ本質や基本的な概念を示しており、証明をしたり、その理由を説明したりすることはできない。
A最初は原理と呼ばれた「法則」
   一方、一部の法則の中には、発見された時の経緯や慣習によって「原理」と呼ばれたものが少なからずあった。
 容易に法則だと分かるものが、勘違いによって原理と呼ばれたことや、当初、原理だと思われていたものが、そうではなかったと気付くということもある。科学の歴史の中には、法則を原理と勘違いした例は少なくない。
   たとえば、アイザック・ニュートンが著したプリンキピアは「自然哲学の数学的諸原理」という名称であるが、中に記されていることの多くが、運動や力学に関する法則であって、本来の原理という意味ではない。ニュートンの時代、世界はまだ錬金術と科学の境界にあった。科学の位置づけやそこにある原理の意味そのものが、まだ曖昧なのかも知れない。
   ミクロスコピックな状態(microstates)とマクロスコピックの状態(macrostate)をエントロピーで関係付ける「ボルツマンの関係」は、かつて「ボルツマンの原理」と呼ばれたことがあり、今でも「ボルツマンの原理」を表題にして解説する書籍がある。現在では「ボルツマンの公式」あるいは「ボルツマンの関係式」と呼ぶのが普通である。英語では、Boltzmann's equation あるいは Boltzmann's entropy formula である。(S=klnW
 アインシュタインは、「原理」という言葉を比較的好んで使った時期があり、ボルツマンがエントロピーを定義したこの公式を非常に高く評価し、自らの論文の中では、ボルツマンの原理と呼んでいたようである。確かに「ボルツマンの公式」は非常に重要な科学の知見であるが、説明したり証明したりできるものであって、原理ではない。
   「アルキメデスの原理」(古代ギリシア)は浮力に関する法則、「パスカルの原理」(17世紀)は流体静力学における法則、「ルシャトリエの原理」(19世紀)は化学平衡における法則である。
  これらの法則は、発見時の科学水準では理由が分からず根本原理と考えられていたため、原理と呼ばれていた。しかし、科学の発達によって、理由が正しく説明され、他の原理や法則によって証明されるようになったため原理ではない。歴史的経緯から、現在でも原理と呼ばれることがある。
B原理の拡大利用の例
    ガス屋にとって、実在気体の状態方程式は非常に重要なものであるが、ファンデルワールス定数は物質ごとに与えられるため、新規の物質の場合は、物性の調査に手間がかかることがある。
  そこで、物理量をそれぞれの気体の物理量の臨界値との比(対臨界温度、対臨界圧力などの換算量、無次元数で英語では reduced 値)を用いて表わすと圧縮係数が気体によらず一般化できるという「対応状態原理、principle of corresponding state」が利用されることがある。これは、実測値に基づかない推算方法であるため、信頼性はそこそこということになるが、臨界定数だけを知れば容易に物性推算が可能になるため、新たな物質を合成した時や、まだ詳細な物性値が得られていない時、工学的にはマイナーな物質であまり物性の研究がなされていない場合などに重宝する手法である。
 工学系の公式には、無次元量によって式を一般化するという手法がよく用いられ、この対臨界比という無次元化手法も対応状態の公式と呼ぶことができる。しかし、一般的には「対応状態原理」という名称で呼ばれている。うまく説明できていないということと、それが根本原理であるということは全く別のことであり、なぜ原理と呼ぶのかその理由はよく分からない。
    「原理」という言葉を比較的多用している熱力学。
  熱力学には第一法則、第二法則、第三法則という3つの重要な法則がある。これらの法則は、厳密には証明されたものとはされていないが、経験則として広く認められており、例外がない法則(破れていない法則)である。特に第二法則は、ガスの科学にとって最も重要な法則のひとつである。
  第二法則には、いくつもの表現方法がある。
  @「熱は熱いものから冷たいものへ流れ、その逆は起こらない」
  A「外部に何の変化も与えずに、低温から高温に熱を移すことはできない」
   「高温から低温に熱を移す過程は不可逆である」
   「クラウジウスの原理」(ルドルフ・クラウジウス)
  B「他に何の痕跡も残さずに、ひとつの熱源から熱を吸収し、それをすべて仕事に変えることはできない」
   「トムソンの原理」「ケルビンの原理」
  C「すべての仕事が熱に変わる現象は不可逆である」
   「トムソンの原理」(ウィリアム・トムソン)
  D「熱効率はカルノーサイクルにおいて最大となる」
   「カルノーの原理」
  E「第二種永久機関は実現不可能である」
   「オストワルドの原理」 (ヴィルヘルム・オストヴァルト)
  F「エントロピー増大の法則」
 
  熱力学の第二法則は、「熱力学時間の矢」を示しているとも言え、混ざったガスは勝手に分離することはないといった自然の法則を表しているが、時間がなぜ一方向にしか流れないのかは物理学の未解決課題であって証明はできていない。20世紀以降も熱力学の第二法則の証明は未完成である。様々な研究者が、第二法則を異なる表現で説明しており、上のAからEまでの表現には、「クラウジウスの原理」「トムソンの原理」「ケルビンの原理」「カルノーの原理」「オストヴァルトの原理」といった人名のついた「原理」という別名が知られている。第二法則は、原理ではなく法則であるが、理由をうまく説明できないことが多く、それぞれの研究者による解釈に原理という言葉がよく用いられている。
C工学における「原理」、本当は「しくみ」
    数学には公理や原理と呼べるものはほとんどなく、大半が公式や定理で組み立てられ、自然科学の分野でも、歴史的な理由によって法則が原理と呼ばれたことを除くと、実際に原理といえるものはごくわずかしかない。
  ところが、数学と自然科学以外の分野、実学の分野では、この「原理」という言葉が、様々なところで使われることがある。
 機械の仕組みやメカニズムのことを「作動原理」「動作原理」と呼ぶことがある。たとえば、「てこの仕組み」を「てこの原理」ということもある。
 測定や分析のために用いる仕組みや、そこで利用されている法則などをまとめて「測定原理」「分析計の原理」などと呼ぶこともある。「測定原理」は、英語でも measurement principle と言うことがあるので、これは、日本語だけのことではなさそうである。これらの例は、原理という言葉本来の定義からすると、かなりの拡大用法である。まだうまく説明ができないため原理と呼んでいるのというのではなく、容易に説明ができる仕組みを原理と呼んでいるだけであり、広義の解釈というよりも、誤用・乱用に近い。
 工学の分野で、原理と呼ばれているものの多くが、正しい用語の用法を守っておらず、おそらくは、法則、仕組み、仕掛けなどとと読み替える方が正しい。
 会話の中で、実現できないことを「原理的に不可能」と言うことがあるが、これも「理論的に不可能」あるいは「法則に反したこと」という意味であって、なにかを議論する時に、わざわざ原理にまで立ち帰る必要もないはずである。あまりも「原理」という言葉が氾濫すると本来の意味を見失いそうになる。
   工学は数学、物理、化学などの基礎科学を応用したものであるから、この分野には基本的に「原理」は存在しない。しかし工学分野にも、原理と呼んだ方がよいものがあり、化学プロセスを考える時の前提条件に「局所平衡の原理」がある。
  これは、蒸留塔や熱交換器における気液の界面(局所)においては、熱力学的平衡が成立していると考える「概念」であり、この原理に基づいて系の気液平衡、伝熱、物質移動、推進力などが議論される。たとえば、液体窒素の貯槽では、中の窒素が沸騰状態にあっても、全体として平衡になることは現実的にはあり得ないので、測定される圧力から温度を推算することなどは不可能である。このような場合は、平衡状態にあるのは気液が接触している界面だけであり、逆に気液が接触している局所においては必ず平衡関係にあると考える。その局所の温度、圧力、組成を知ることはできないが、局所平衡を考えることによって、その周囲の温度分布、濃度分布、伝熱、物質移動などを考察することが最も理に適っている。
 この場合の、局所平衡は前提であって、実験結果や他の法則を用いて証明されるものではない。局所において平衡が成り立っているかどうかを確認する方法はなく、それよりも界面での平衡を仮定し、その周辺で起こっている現象を理解することの方が役に立つ。この原理を認めないことには、話が先に進まず、実際に平衡が成り立っているかどうかといった議論は意味がないのである。
D原理の破れ
   原理は、理に適っており、間違っていないことが大前提であるが、哲学や科学の歴史の中では、それまで当たり前だと思われていた原理が、実際は正しくはなかったということが起こっている。
「天動説」、「地動説(太陽中心説)」「絶対時間」、「絶対空間」は、様々な観測結果や理論の間でつじつまが合わなくなった。原理が「破れる(breaking)」ということは、重大事件であるから、原理に反するような事象が発見された場合には、すぐに原理を見直すのではなく、実験や観測や計算のやり直し、理論の補強やほころびの修復などが試みられる。
  しかし、天動説や絶対時間、絶対空間は、ついに修復が不可能となり、放棄せざるを得なくなり、新たな原理が取って代わった。
 新しい原理が現われると古い原理に基づいていた法則は、新しい原理のもとで新たな解釈が行われ、再構築が行われることになる。原理の変更は、比較的簡単に進む場合もあれば、天動説に代わる地動説の時のように、宗教裁判という大きな事件が起こることもある。移行には長期間要する場合もある。また20世紀中盤には、太陽が運動していること、太陽系を含む銀河系が運動していること、銀河系だけでなくその他の銀河も運動しており、宇宙全体が膨張していることなどが次々と明らかとなり、地動説(太陽中心説)も破れてしまっている。(太陽系だけを考えるのであれば太陽が宇宙空間に静止しておりその周りを地球が運動していると考えることも可能であるが、それでは太陽系以外の天体の動きを説明できない)