サイト・トップ
ガスの科学ブログ
ガスの科学目次
 
前の記事
29
次の記事
 
前へ
目次順
次へ
ガスの科学トップへ
第29回 エネルギーの発明(1)活力論争
 2017/11/26

エネルギーの概念
「エネルギー」は、日常会話にも頻繁に現れる言葉であるが、比較的近年に導入された「物理学の概念」であって、大昔から知られているものではない。エネルギーには実体がなく、これがエネルギーであるということを具体的に示すことができない抽象的な「概念」である。
   現在では、エネルギーを測る「単位」があって、ほとんどの人がエネルギーの「存在」を疑っていないが、難解で実体のつかめない「概念」を理解することは容易ではない。石炭や石油は熱エネルギーと呼ばれるものに転換される原料であるが、エネルギーそのものではない。電気も動力に変換することができるが、エネルギーそのものではない。
われわれが、エネルギーらしきものを感じるのは、「力」であり、その力のもとになっているスタミナのようなもの、「活力」のようなものが、エネルギーと呼ばれているが、こんなに曖昧で正体不明のものを理解することは難しい。過去、多くの天才的な学者達が、この何となく感じる「活力」を理解するために思索をめぐらした。活力は哲学と生まれたばかりの科学の大きな課題であった。
(1)活力論争(力の元「活力」)とエネルギーの発明
   17世紀初頭、ガリレオ・ガリレイ(15641642年、フィレンツェ公国ピサ)は、現代の人たちが、エネルギーと考えているものを、運動する物体が持つ「固有の力」と考えた。「力」というものは、人々が感じ取ることができるが、その元になっているものは何なのか、実体の見えない何かについて、哲学者は様々な仮説をたてた。
  17世紀中頃、力の元をめぐって大きな科学論争が起こった。「活力論争」
   ルネ・デカルト(1596〜1650年、フランス)は、重さと速さの積のようなもの(現在では運動量、mv)を考え、ゴットフリート・ライプニッツ(1646年〜1716年、神聖ローマ帝国ライプツィヒ)は、重さと速度の二乗の積(mv2、現在の運動エネルギーの2倍)のようなものだと考えた。
 デカルトやライプニッツが考えた、力の元は、「活力」(vis viva)と呼ばれた。
 釣り合いの力(静力学)がよく研究されていたので、これに対応するように、動く物体には、何か「生きた力・活力」が含まれていると考えられた。しかし、デカルトの考えた活力とライプニッツが考えた活力は、異なる数式を与え、現代の言葉で言えば、物理量の次元が異なるため、概念が異なる。どちらの活力の解釈が正しいのかということが大きな議論になった。
   ライプニッツは、デカルトよりも50歳も年下、両者の活動時期は重なっていないが、ライプニッツがデカルト派の活力を批判し、大勢の学者を巻き込んだ「活力論争」が起こった。現在の科学の言葉を使えば、デカルトの示した運動量、ライプニッツが示した運動エネルギーの、いずれが、活力を正しく表現しているのかという論争である。しかし、いずれも物体そのものが保有するものであり、現在の解釈とは異っている。
   活力論争は、答えがでないまま、一旦、下火になったが、18世紀になって、数学者ヨハン・ベルヌーイ(1667〜1748年、スイス)が「物体の衝突に関する論文」を提出し(1720年)、この論文がきっかけとなって、活力論争が復活した。物体の衝突が研究され、衝突前後の「活力の保存」が議論された。
   18世紀中頃の科学の常識は、運動する物体は何らかの「力」を持っているとされていた。しかし、3人の学者、ピエール・ルイ・モーペルテュイ(1698〜1759年、フランス)、レオンハルト・オイラー(1707〜1783年、スイス)、ジャン・ル・ロン・ダランベール(1717〜1783年、フランス)はが、この原理を否定、活力とは物体が保有するものではなく、運動そのものと考えられるようになり、活力論争は解消に向かい始めた。
  活力論争の研究
   活力論争を研究した京都大学大学院文学研究科の有賀暢迪氏が「活力論争とは何だったのか」『科学哲学科学史研究』第3 号(2009)の中で活力論争とその終結を解説しているが、当時の帰結は何であったのか、非常に難解である。要約すると次のようなものになると思う。
   18世紀には、およそ次のような議論があった。
    オイラーは、慣性力は物体に内在する「力」ではないことを示し、「力は物体の本質ではない」ため、活力などの言葉の意味を変えるべきであると主張した。
 ダランベールは「動力学論(1743 年)」において、活力論争は言葉の論争であるとしてこれを決着させようとした。これは、「ダランベール神話」と言われたが、後年の研究者によって、活力論争におけるデカルトの活力とライプニッツの活力は言葉の論争ではなく、より本質的な問題であり、力の「尺度」と「保存」の二つの論点から見解の不一致が生じていたと指摘されている。
 オイラーやダランベールによって「力は物体が持つ物性である」というそれまでの科学の常識が覆されたということは科学史上の大きなできごとであり、物理学は新たな転換点を迎えることになった(1740年頃)。ただし、今日の、力、運動量、エネルギーといった概念にはまだ遠い。
   なお、当時の力学の研究者のほとんどが数学者であり、実験専門の科学者は非常に少ない。活力論争で活躍したモーペルテュイ、オイラー、ダランベールの3人も著名な数学者であり、物理学における最も基本的な原理である「最小作用の原理」の発見に寄与している。3人の著名な数学者が、活力は物体固有のものではないと示したが、活力が何なのかは、それは何となく曖昧なままであった。
である。
エネルギーの概念の発明
   活力の尺度と活力の保存の見解の違いが解消されないまま、19世紀になり、トマス・ヤング(1773〜1829年、スコットランド)が、著書「自然哲学講義」(1807年)の中で、それまでの活力に変わる概念として「エネルギー」という言葉を初めて用いた。
これは、ギリシア語の「仕事をする能力」という意味の言葉から作られている。活力は、「力と運動の関係」を示そうとした概念であったが、エネルギーは、「力と仕事を関係づける」新たな概念であった。ヤングは、エネルギーを発見したのではなく、エネルギーを発明した。
   その後、ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ(1792〜1843年、フランス)によって、活力は、1/2mv2 と定式化された(1829年)。これは、ライプニッツの「活力」に似ている。後に、ウィリアム・トムソン(ケルビン卿)は、この物理量を、「運動エネルギー」(kinetic energy)と名付けた(1850年)。ケルビンはこの時、何故か、dynamicという英語を使わずに、ギリシア語の接尾詞 -kinesisを使って、この言葉を作った。 キネティックあるいはカイネティックという英語は、現在では、動きを表わす普通の言葉として用いられているが、これは、19世紀半ばに、ウィリアム・トムソンがギリシャ語から作った造語であり、比較的新しい言葉である。
   自然科学、物理学の歴史の中でみると「エネルギー」は非常に新しい概念である。ヤングが提唱してから200年、コリオリが運動エネルギーを定式化して190年、ウィリアム・トムソンがこれを運動エネルギーと名付けてから170年ほどしかたっていない。それまでは誰もエネルギーという概念を疑っていなかったが、現在では、エネルギーという言葉は巷にあふれかえっている。
 なお、日本に広まったのは英語の「エナジー」ではなくドイツ語の「エネルギー」、形容詞や副詞も英語の「エナジェティック」ではなくドイツ語の「エネルギッシュ」の方が広まっている。適当な日本語訳が存在しないため、政府機関であっても「資源・エネルギー庁」など外来語のままである。
トマス・ヤング
   エネルギーの概念を発明したトマス・ヤングは、医者でありヒエログリフを解読する言語学者であったが、同時に光や音、波の研究を行う物理学者でもあった。
 ヤングは、音の研究からヤング音律を考案、不協和音が少ないヤングの調律法は、当時のバロック音楽に多用された。光の研究では「ヤングの実験」によって、光が干渉することを示し、光の波動説を唱えた。量子力学と不確定性原理における有名な「二重スリットの実験」のオリジナルは、このヤングの波の実験である。
 ヤングは、医学と光学の両方の知見を持ち、乱視や色覚の研究を行ない、ヤング=ヘルムホルツの三色説を提唱した。ヤングの三原色RGBは、その後の光の原色のスタンダードになった。光には色という特性はなく、三原色はヒトという動物の視覚が生み出したものである。物理学と医学に精通したヤングとヘルムホルツならではの学説である。ヤングは、弾性力学の研究にも貢献し、フックの法則における、ひずみと応力の比例定数(縦弾性係数)は、ヤング率と呼ばれる。
   ヤングの様々な業績が後世に伝わっているが、新たに導入した「エネルギー」の概念が、その後の科学、社会に与えた影響は非常に大きい。様々な自然科学分野にエネルギーの概念とそれを表す記号が現れ、物理学や化学の式の多くがエネルギーを用いて記述されるようになった。自然科学以外でもエネルギーという言葉を使う人は多い。しかし、ヤングの名前は、エネルギーの発明者としてはあまり大きく取り上げられることはない。ヤングはエネルギーという言葉を発明したが、いきなりひとりでエネルギーの概念を発明したというのではなく、それまでの多くの学者による力、活力、熱などの様々な研究があって、それらをまとめる基本的な概念としてエネルギーという言葉を発明した。
   エネルギーは、わずか200年の間に、科学以外の、ありとあらゆる分野に浸透し、日常会話の中にも入っていった。しかし、過去の活力論争にみられるように、このような、実体のない抽象的概念は、具体的な形で示すことができないため、エネルギーを理解することは非常に難しい。
エネルギーの性質
   古典力学では、運動エネルギーとポテンシャルエネルギー(位置エネルギーなど)が数式で示され、食物や燃料では活力や熱がエネルギーの存在や大小を感じさせてくれる。しかし、エネルギーは、取り出して測ることができず、エネルギーを直接測定する方法もない。ほとんどの物理量は、間接的ではあるが、何らかの現象を利用して測ることができ、長さ、温度、力(重力、圧力、電力)などを測定する機器がある。エネルギーの測定は、さらに間接的であり、これらの物理量やその変化からエネルギーが計算される。数字にすることはできるがその実体はとても分かりにくい。
   エネルギーの最も重要な性質は、エネルギーが保存される、ということである。エネルギーそのものは、創造することはできず、枯渇したり消滅したりすることはない、失われたように見えても、それは形態が変わって現象が観測しにくくなっただけであり、エネルギーそのものの総量は不変であると考えられている。エネルギー保存則という法則を議論するときは、「系」を決めて行わなければならないが、われわれの身近にあるエネルギーは、少なくとも地球や太陽の階層の系を考えた時には系外との出入りもなく保存される。
   エネルギーは作り出すことができないので、たとえば、「エネルギーを産み出す」という表現は、エネルギーが変換される状態、特に使いやすい形態に変換される過程を比喩的に表わしているのであって、エネルギーの本質を正しく表現していない。教育・研究現場でも、エネルギーは増えたり減ったりせず、ただ形が変わるだけと教えており、大学のエネルギーに関する学科や研究室の名前にも「エネルギー変換工学」という言葉が使われることが多い。
  生物や人間は、エネルギーが様々に変換する過程を利用し、活力のようなものとしている。エネルギーを生む、エネルギーがなくなるといった表現は、少なくとも自然科学の言葉ではないが、実学としては重要であり、エネルギーの変換過程をうまく利用する技術が重要である。
   エネルギーには、様々な「形態」が知られている。
  運動エネルギーは、力学エネルギー(位置エネルギー、弾性エネルギー、運動エネルギー、音のエネルギー)の一種である。
  熱エネルギー、化学エネルギー(自由エネルギー、イオン化エネルギー)、光エネルギー、電気エネルギー、質量、空間(真空のエネルギー)など、エネルギーは実に様々な形態で現われる。
 エネルギーが、形を変える時に、力が現れ、温度や圧力が変化する現象が起こる。
 エネルギーの正体は、分からないが、このようなエネルギーの変換過程における現象を通じて、われわれは、エネルギーの存在を何となく感じている。力や熱、スタミナや持久力といったエネルギーではない何か別のものからエネルギーを感じている。