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第22回 理想気体の科学(3)大気と空気 @気体の研究と酸素の発見
 2017/11/14
 
修正

@気体の研究と酸素の発見
 18世紀末、空気には、窒素(1772年、ダニエル・ラザフォードが発見)と酸素が含まれていると考えられるようになり、アントワーヌ・ラヴォアジェ(1743〜1794年、フランス)は、空気がいくつかの物質からできていることを見出し、その中の物を燃やす力のある物質をオキシジェーヌと命名した(1779年)
   ラヴォアジェが、燃焼現象を「燃焼とは物質と気体が結合すること」と説明し(1774年)、その気体を「酸素」と名付けたが、酸素はその前にジョゼフ・プリーストリ(17331804年、イングランド)によって発見されていた(1775年)。
 酸素を発見したプリーストリは、物をもやす「燃素」フロギストン説(
phlogiston theory)に従って様々な空気(気体)の研究を行っていた。ラヴォアジェは、フロギストン説を打破して近代化学の基礎を築いたことで知られるが、プリーストリは、フロギストン説にとらわれたままであった。
    現在の化学では、原子と原子が組み合わされて分子が作られ、物が燃えるということは、その原子が酸素原子と結びつく現象(燃焼は酸素による酸化反応)と理解されるが、フロギストン説では、物が燃えるということは、物質から燃素(フロギストン)が抜ける現象であると理解される。
    プリーストリは、硝空気、減容硝空気、海酸空気、アルカリ空気、礬酸空気(ばんさんくうき)などの「空気」を単離し、『さまざまな種類の空気につての実験と観察』という研究報告を発表した。
  この5つの「空気」を現代の化学式で表すと、
NO NO2HClNH3SO2となるが、当時は、そのような様々な性質をもった「空気」が存在し、その反応はフロギストンによって説明されていた。塩化水素やアンモニアなど水に溶けやすい気体は、化学反応によって発生させることができても、水上置換では容易に捕集できなかったが、プリーストリは水銀による捕集法を考案して、様々な「空気=気体」の単離に成功していた。
   プリーストリの研究報告の第2版(1775年)では「脱フロギストン空気」が示され、後にこの空気は、ラボアジェによって酸素と呼ばれるようになった。さまざまな「空気」が発見されたが、そのうちのひとつが酸素であった。
 プリーストリーは、一貫してフロギストン仮説を信奉して研究を行っていたため、金属を燃やした時に灰が残るのは、金属が燃えてフロギストンが抜けるためであると考えていた。要するに、金属は灰とフロギストンが結合したものということになる。フロギストン説は、ラヴォアジエが示した、金属が酸素と結合して酸化物(灰)になるという概念とは正反対の理論であり、空気からフロギストンを抜いた脱フロギストン空気が現在の酸素、逆にフロギストン化した空気が現在の窒素ということになる。
   ラヴォアジェは、フロギストン説に反対する論文を提出(1785年)、フロギストン批判を展開し、多くの科学者がフロギストン説から反フロギストン説へ転向した。
   
   ラヴォアジェは、フロギストン説を打ち破り近代化学の礎を築くことに成功したが、酸素が「酸の素」であると誤解して、これにオクシジェーヌ(酸の素)という名前をつけてしまった。酸素の発見者プリーストリーは、フロギストン説から抜け出せず、燃焼とは酸素と結合することであるという発見をすることができなかったが、フロギストン説を覆し、酸素の正しい反応を説明したラヴォアジエの方は、酸素というものを誤解して命名してしまった。
  ラヴォアジェは、元素や化学物質の命名法を定めたひとりであり、ヘンリー・キャヴェンディッシュ(
17311810年、イングランド)が、発見していた「水を作る元素」にイドロジェーヌ(水の素、水素)という名前を与えている。これは正しい命名であったが、酸素に関しては大きな間違いをした。
    「酸」とは、塩基と対になって働く物質であり、一般的には「水素イオン」である。「酸素」と「酸」は関係ないことが、後年判明したが、元素の名前「酸素」は訂正されることがなかった。フロギストン説を覆し近代化学の礎を築いたラヴォアジェであるが、彼によって間違えて命名されてしまった「酸素」は、世界中の言語に定着してしまい、240年たった現在も訂正されることがない。
   なお、プリーストリが、酸素の存在を実験的に確認したのが1771年、酸素ガスを単離したのが1774年、研究報告が行われたのが1775年であるから、学術的には、酸素の発見は1775年とされるが、英国における「酸素発見記念日」は177481日である。
 プリーストリーの経歴は、自然哲学者、教育者、神学者、政治哲学者であるが、一般的には牧師として知られている(非国教徒の聖職者)。神学者であり法学博士でもあるプリーストリは、宗教的な混乱から英国に住み続けることができなくなり、
1793年に米国に移住し、米国を活動拠点とした。

     独立間もない米国では、既に著名な化学者として知られるようになっていたプリーストリの移住が歓迎されたが、プリーストリの研究の多くがフロギストン説を証明する目的で行われ、プリーストリは最後まで、ラボアジェが提唱した新しい化学革命に反対し、フロギストン説に固執し続けたため、化学の分野では完全に孤立してしまった。
 しかし
酸素発見だけでない数々の化学の業績によって、化学者プリーストリの評価は高く、酸素発見100周年を記念して創設された「プリーストリ賞」がきっかけとなって米国には化学会(学会)が作られた。米国化学会では毎年、化学分野における卓越した業績に対してプリーストリ賞を授与している。酸素を発見したプリーストリの名前は化学史に大きく残っている。
酸素発見の意義
   原光雄著「化学を築いた人々」(中央公論社)に登場する化学者、先頭はロバート・ボイルであるが、2番目はジョゼフ・プリーストリである。その冒頭(34〜35ページ)には、次のような記述がある。
 

 『プリーストリは、酸素の発見者として化学史上に不朽の名をとどめている。古来、元素や化合物の発見は数多くおこなわれたが、最高の発見は酸素のそれである。一個の物質の発見が、化学の全体系の発展にこれほどの重要性をもったことは、空前絶後なのである。
  人類が住む地殻は、特異的に酸素に片よっている。宇宙全体の平均的な元素組成は、九九%までが水素とヘリウムであるのに、わが地殻では酸素が約四七%、ケイ素が約二八%、アルミニウムが約八%…と酸素が圧倒的である。しかも酸素は、量的に圧倒的なばかりでなく、その化学的性質がきわめて活発である。古来の元素観たる四元素説の水・空気・土はいずれも酸素の化合物または混合物であり、比は酸化現象にほかならない。
  このような与件のもとで人類が化学を科学的に確立するためには、酸素の単離発見とその単体性の認識が不可欠であった。プリーストリによる酸素の発見と、ラヴォアジェによるその単体性の認識によって、近代化学の確立が開始されたのは、自然的与件にもとづく必然だったということができる。
 酸素の単離発見は、スウェーデンの化学者シェーレ(一七四二〜八六)と、イギリス人プリーストリとによって、それぞれ独立におこなわれた。シェーレの発見は、時期的に早かった点においても、また実験が系統的だった点においても、プリーストリより優っているが、公表はプリーストリよりも遅れた。プリーストリの酸素発見は、ラヴォアジェの新元素仮説樹立の導火線となったために、「有効的な酸素発見」とよばれている。彼は酸素のほかにも、塩化水素、アンモニア、酸化窒素、酸化二窒素、二酸化硫黄、その他の重要ガスを発見し、「気体化学の父」とも称されている。』

   原光雄先生によると、ボイルは「近代化学の父」であり、プリーストリは「気体化学の父」であるという。プリーストリは様々な「空気(気体)」を発見し、その中でも酸素の発見と単離はその後の化学の発展に大きな影響を与える非常に大きな出来事であった。
  プリーストリの酸素発見からおよそ100年後、英国のブリン兄弟が初めて酸素の商業生産に成功する。ブリン酸素会社(BOC社)という世界最古の酸素会社(産業ガス会社)である(その後ブリティッシュ酸素と社名を変えるが、略称は同じくBOC社)。最初の酸素の用途はライムライト照明用であり、その製法はブリン兄弟が実用化に成功したブリン・プロセスというバリウムを利用した化学反応プロセスであったが、原料は「空気」である。20世紀になって、酸素の製法は、蒸留法に変わるが、やはり原料は空気であり、空気を分離して酸素を製造する「空気分離プロセス」が普及した。空気を原料とする酸素と窒素の大量生産が実現され、鉄の大量生産(酸素製鋼法)や巨大な化学産業を支えていった。
酸素発見の歴史
 
(1660年頃 ジョン・メーヨー(16401679年、イングランド)が、血液の研究から空気中には酸素(酸素のような性質を持つ空気)があることを示唆した。
1662年) ロバート・ボイルが「ボイルの法則」を発見した
1772年) ダニエル・ラザフォードが「有毒空気」(noxious air)あるいは「フロギストン化した空気」(phlogisticated air)を発見。英語では nitrogen と呼ばれた。(1772年、窒素の発見)
1773年) カール・ヴィルヘルム・シェーレ(17421786年、スウェーデン)が「火の空気」(酸素)を発見した。シェーレは、プリーストリーよりも先に酸素を発見していたことになるが、発表が遅れたため最初の発見者としては記録されなかった。彼は、新元素バリウムも発見しているが、本業は薬剤師であり、学者にはならなかった。
1774年) プリーストリが、「脱フロギストン空気(酸素)」を発見、翌年報告。
1779年) ラボアジェが、新元素に「酸素」と名付けた。
(1802年) ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックが「シャルルの法則」を定式化して発表した
1810年) サー・ハンフリー・デービーが、酸素が酸の素ではないことを発見した。塩酸を電気分解しても酸素が得られないことを示し、酸は酸素の化合物だとするラボアジェの主張を覆した。
1811年) ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックとルイ・ジャック・テナールがバリウムと空気の反応から酸素を製造できる反応プロセスを発見。
1852年) ジャン・バティスト・ブサンゴーが、ゲイ=リュサックらの反応を用いて酸素を発生させるプロセスを確立しようと試みたが、反応が続かず失敗。
1884年) ブサンゴーの学生であったクエンティン・ブリンとアーサー・レオン・ブリン兄弟は、反応を繰り返して酸素を製造するブリン・プロセスを完成させた。
1895年) 空気中からアルゴンを発見したウィリアム・ラムゼーの希ガス研究に協力したBOC社のウィリアム・ハンプソンが、空気の液化装置の特許を取得。この研究の過程で新元素(ネオン、クリプトン、キセノン)が発見された。直後にカール・フォン・リンデらも空気の液化に成功、その後、酸素は空気の蒸留分離法によって製造されるようになる。
空気の主要3成分 酸素、窒素、アルゴン
   「酸素」というものが科学として取り扱われるようになったのは、前述のようにわずか240年前のことである。アントワーヌ・ラヴォアジェは、空気がいくつかの物質からできていることを見出し、物を燃やす力のある物質をオキシジェーヌ(フランス語Oxygene、英語では oxygen)と命名したがデービーの研究によって、酸性の原因は、酸素ではなく水素であるということが判明した。
   日本語には、この物質を表す言葉がなく、ドイツ語のSauerstoff(酸っぱい・物質)が直訳されて「酸・素」になった。世界の言語の中で、酸素は、酸の素だと勘違いされたままの名前で呼ばれ続けており、今後も訂正されることはない。液体酸素を運搬するタンクローリーや貯槽には、「液化酸素」と表示されているが、産業ガス業界では、液体酸素を「液酸」と省略して呼ぶことが多い。これは塩酸や硝酸の水溶液のことではなく、液体酸素のことである。液酸ローリー、液酸ポンプ、液酸タンクなど、非常に紛らわしいと思うが、産業ガス業界では日常的に使っている。
   「窒素」は英語のnitrogen(語源は有毒空気)ではなく、ドイツ語のStickstoff(窒息・物質)の直訳から「窒・素」になった。酸素を含まない空気は呼吸できないことが古くから知られているが、窒素という気体は、生物学者のダニエル・ラザフォード(スコットランド)が発見した(1872年)。
液酸(えきさん、液体空気)、液窒(えきちつ、液体窒素)、液空(えきくう、液体空気)、原空(げんくう、原料空気あるいは原料空気圧縮機)など、業界だけで通じる用語がある。法律用語は液体酸素ではなく液化酸素と呼ぶ。
   「アルゴン」は、19世紀末に発見された。空気中に1%近くも含まれているのにも関わらず、わずか120年前までは、存在が知られていなかった新元素である。別項に詳しく述べることにする。