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第7回  ボイルの法則(6)
     王立協会(Royal Society)、現存する最古の学会
2017/10/10
 
修正 10/1111/6

英国の混乱期、ボイルの法則
 ボイルの法則が発見され、欧州に新たな科学の時代が始まったころ、それまでの自然哲学の中心は、イタリア(ピサやフレンツェ)やフランスであった。その頃、ドイツの地域(神聖ローマ帝国)では日本の戦国時代以上に複雑で悲惨な30年戦争(16181648年)が起こり、その戦後復興の中でマクデブルクのゲーリッケが真空と大気の研究を行った。
  また英国では、イングランドやスコットランド、アイルランドを舞台にして、国王派と議会派の間の内戦、ピューリタン革命が起こった(16411649年)。王政復古(1660年)によってピューリタン革命が終結すると、続いて、名誉革命(16881689年)が起こり、英国(ブリテン)では政治的混乱が続いた。ボイルがボイルの法則を発見したのは、この混乱期の英国であり、そこには現存する最古の学会、「王立協会」が設立され、ボイルたちの活躍の場となった。それまで、自然哲学は、イタリアやフランスを中心に進んできたが、新たな自然科学の発展の場は英国となった。
王立協会の設立
   ロバート・ボイル(16271691年)とロバート・フック(16351703年)が活躍した頃、欧州は17世紀科学革命(第一次 科学の制度化)の時代である。
  彼らは、ロンドンに「王立協会」を設立した。最古の学会は、ローマのアッカデーミア・デイ・リンチェイ(山猫学会、1602年)であるが、現存する最古の学会は、このロンドンに創立された王立協会(Royal Society)、正式名称 "The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge"「自然科学の発展に寄与するロンドン王立協会(学会)」である。
   同時期に設立された自然科学の学会は3つ、フレンツェ実験学会(1657年)、王立協会(1660年)、パリ科学アカデミー(1666年)であり、その中で、この王立協会だけが民間団体であり、他の2つはいわゆる政府機関である。王立協会はその名称から、国や国王が設立・運営している政府機関のように思われるが、国王チャールズ2世が設立を許可したというだけで、それ以上は国家が関与しない自然科学に関する民間の任意団体である。正式名称が長いため通常は単に王立協会と呼ばれるが、英国王立協会ではなくロンドン王立協会である。
 

 ボイルとフックが生まれた頃、英国は、激動と争乱の時代である。王権神授説によって権力をふるったジェームズ1世、チャールズ1世の時代、イングランド、スコットランド、アイルランドを舞台に大きな内戦が起こった(1642年)。宗教対立の形式をとった内戦は、オリバー・クロムウェル率いる清教徒派(議会派)が王党派に勝利し、クロムウェルによる独裁体制、護国卿時代となった(ピューリタン革命、清教徒革命)。しかし、クロムウェルの死去によって革命が終焉に向かい、復権したチャールズ2世がオランダから帰国し、王政復古が成った(1660年)。

   同じ年の11月、ボイルらが中心となって、実験哲学の育成を目的としたアカデミー設立計画が動き出し、1662年には、チャールズ2世から勅許状が与えられ、王立協会の前にあった「見えない大学(無形のカレッジ)」は、「自然知識を促進するためのロンドン王立協会」として正式に発足した。
  王立協会は、「権威に頼らず、また権威に干渉されることなく、実験・観測事実をもって近代自然科学を構築すること」を目的として設立され、イングランド国教会の許可がなくとも出版を許される特別な団体となった。それは、自然哲学が政治や宗教の権威に影響されて来た歴史ことと大いに関係があり、王立協会が目指す自然科学は、そうした権威に頼ったり支配されたりすることがないようにとの思想に基づいており、それを国王が認めたということに意味があった。
グレシャム・カレッジ
   グレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」で知られるトーマス・グレシャム(15191579年、イングランド)の遺言によってロンドンのグレシャム邸内には、グレシャムカレッジが設立されていた(1597年)が、王立協会は、主にここを拠点として活動した。
   グレシャム・カレッジは、中世のスコラ学から学問を開放することを目的としており、学問がごく一部の人のものであった時代に、一般の人々にも開かれた学問の場を提供するために、入学資格も授業料も必要としなかった。授業は、学問の基本であるラテン語だけでなく英語でも行うことが義務付けられており、できる限り実用的であることも求められた。たとえば、初代の幾何学教授ヘンリー・ブリッグスは、スコットランドの数学者ジョン・ネイピアの業績(自然対数)を引き継いで、対数の底を10とする常用対数(ブリッグスの対数)を提案し、対数表や三角関数表などを出版し、数学から得られる知識や技術が実社会にも役立つようにした。
   西欧に起源がある「大学」という教育機関には、12〜13世紀に始まる「ユニバーシティ」(University、日本語では「総合大学」)、様々な意味で用いられる高等教育機関である「カレッジ」(College、日本語では「単科大学」「専門学校」などと訳される)、工業系の単科大学を表わすインスティチュート(Institute of Technology、日本語では工業大学や工科大学)などがある。イングランドには。この時すでに「オックスフォード・ユニバーシティ(11世紀末創立)」と「ケンブリッジ・ユニバーシティ(13世紀初頭創立)」が存在していた。これらのユニバーシティはデパートメント(学科)とカレッジで構成される特徴的なカレッジ制を敷く「総合大学」であり、イングランドにおける高等教育の権威である。
   オックスフォードやケンブリッジにおけるカレッジは「学寮」の位置づけであるが、ロンドンに作られたグレシャム・カレッジは、ユニバーシティに含まれるカレッジではなく、独立した学校であり、現代の単科大学に近い教育・研究機関であった。ただし教育科目は単科ではなく、天文学、神学、幾何学、法律、音楽、修辞学、医学(physic 、現在のphysics 物理学も含む)の教授を置いている。現代の感覚からすると、純粋に理科系の学校ではないが、科学や実学に重点をおいているようにみえる。
新たな科学の時代の始まり
   グレシャム・カレッジを活動拠点とした王立協会もカレッジと同様、開かれた組織と科学的知識の共有を目指していたため、ボイルやフックの書籍も英語で書かれた。授業や出版がラテン語で行われるユニバーシティとは大きく異なる点である。時は、まだ錬金術の時代であったが、グレシャムカレッジに間借りして設立された王立協会は、開かれた教育・研究を目指し、科学の時代を切り開いていった。
   王立協会の設立時、ボイル(33歳)は初代の会長(president)に選挙されたがこれを辞退、研究に集中することにした。助手であるフックは若過ぎた(25歳)ため設立メンバーにも名前を連ねなかった。しかし、ロバート・ボイルとロバート・フックは王立協会の中心メンバーであり、実質的には、彼らが王立協会を発展させていった。
   この当時の「科学」とは、貴族が趣味でおこなうもの、あるいは錬金術師が仕事の合間に行うものであり、いわゆるアマチュア(素人あるいは愛好家)のものである。
  ボイルは、素人と言えないが、貴族であり錬金術師であり、周囲からは化学愛好家と思われておりアマチュアである。
  フックは、数少ない例外のひとりであり、おそらく史上最も古い科学を本業とする職業科学者(プロフェッショナル)と思われる。フックは、王立協会の定期的な会合で、様々な物理、化学、生物学、生理学の講演や実験の実演を行い、正式にグレシャムカレッジの教授となってからは、終生、カレッジ内に居住を許された特別な科学者となった。
   17世紀初頭から中期にかけて、イタリア、フランス、イングランドなどには、王立協会のような学会が設立され、学会誌の発刊が行われるようになり、科学は「一人前の大人が行うに値するもの」との認識が広まり「科学の制度化」が行われた。
   王立協会の歴代の会長には、主に爵位を持つ政治家、軍人などが選ばれたが、学者では12代目アイザック・ニュートン、22代目ハンフリー・デービー(バロネット卿)、35代目ウィリアム・トムソン(ケルビン卿)、38代目ジョン・ウィリアム・ストラット(3代目レイリー卿)、43代目アーネスト・ラザフォード(ネルソン卿)などが会長を務めている。